本気で生きることにします

本気ってどんな感じなんだろうか。 自分って、いままで本気で本気になったことあるんだろうか。 なんて、考えたことある? 本気になったらこんなもんじゃないぜ、もっとやれる気がするぜ、って。 だったらどうして、いま本気ださないの?


先延ばしもたいがいにしとけ

本気でやります
と、
宣言してしまったらもう引き返せない。
言い訳できない。
だから宣言なんてせず、
ダメだったときの言い訳を最後に用意していた。
でもやっぱり本気で生きることにします。
いままではどうも、
本気じゃなかったみたいなので反省してます。
後悔するにはまだ早いですが、
このまま本気をださないでいたらいずれ後悔するってわかるし。
きっと神さまが天上界から人間界を見下ろして、
がんばってるヤツと怠けているヤツをグループ分けしてるんで、
わたしは「本気で生きてるグループ」に分類されたいです。
達成できなかったら笑われる状況で、
大きな目標をはっきり掲げて大きな声で宣言してる人って、
身近なところではやっぱり少ない。
そうじゃないですか? わたしだって、
できることなら自分を追いこむようなことはやめて、
まあまあな成功でまわりをごまかしていたい。
けれどもうすぐ55歳ってことで人生も後半、
先延ばしもたいがいにしとけって感じ。

本気度はダイエットにあらわれる

いままでだって一生懸命やってきました。
しぶとくまじめに、
そう簡単に何事もあきらめず、
あるときは必死で、
一心不乱に無我夢中で取り組んだこともあります。
しかし本気だったかと問われれば、
そうではなかった。
アスペルガー気質なので、
ガーッと入りこむと歯止めがきかなくなって危ないので、
ちょいちょいブレーキ踏んで安全運転を心がけてきた。
必死でやってたけど本気じゃなかった
ってことは、
自分の意志じゃなく「やらされてた」ってことか。
おかしいかな?
好き勝手してきたはずの、
わがままなわたしにかぎってそんなバカな‥‥って考えると悔しいです。
なのでこれから自己陶冶を本気でやろうと思う。
三忽三行の試験があったとして、
それに100点を取る気で妥協なくやります。
徳を積んで人格を磨いて、
いま程度のステイタスには「もう戻らない」つもりで、
終わりのない旅に出ます。
いままでもそれなりにがんばってきましたから、
自己採点で60点、70点は取れるくらいにはなれたんですが、
その程度で「合格だ」「もういいか」「もうじゅうぶん」と思ってしまったのが浅はかでした。
ダイエットにたとえるとわかりやすいんですけども、
70キロあった体重を60キロまで減らしたとき、
「もうじゅうぶん」って思いますよね?
いままでの長いぬるま湯ぐらし、
心の油断はそれなんです。
わたしの体重が60キロでも61でも誰も何も思いませんし、
パッと見は肥満じゃないし不健康でもありませんから。
68キロまで太ったときは、
さすがにメタボ丸出しで、
まわりの人にもおなかポンポンってたたかれて冷やかされるし、
ぶよぶよしたおなかが自分でもイヤでしたけど、
別に誰かに迷惑かけてるわけじゃなし。
どうせまたすぐやせられるしって思ってるし、
食べたいものを食べたいだけ食べる快感を、
制限しないといけない理由はよくわからないし‥‥
‥‥とかなんとかいってごまかしてしまう。
体重は感情コントロールのバロメータでもあり、
おなかまわりのムダ肉が心のブレを映し出してます。
8キロ絞ったといえば調子がよさそうに聞こえますが、
上下動すること自体がおかしいんです。
心が安定していると体重も確実に安定します。
本気を出したら、
死ぬまで61キロを超えない身体を安定的に維持できるのがほんとう。
でもそんなふうに、
ピリッとするのってたいへんそうで‥‥
そこまでせんでもええちゃう?
──って、
思いますよ。

わたしはまだ自分を変えたい

ひたむきにやれている人は、
かっこええなと思いますけど。
自分とは無関係なグループだと感じることないですか?
中学、高校の部活でも、
レギュラーメンバーのスターチームと補欠チームがあった。
>あの人らはかっこよく生きてる人たち、
>がんばれがんばれ

志が高くて極めてる人って、
なんかストイックでたいへんそうだから、
そういうの、オレは遠慮しとくわって感じで。
ごまかしてました。
人生は1回こっきり
っていう、
そんなあったりまえの初歩をごまかしてました。
 こうして何事もない普通の人生に生きているときの自分というものを、ただ単に知っただけでは、人生は解決がつかないんです。本当に知っておかなきゃならないのは、有事の際の自分を明瞭に認識することなんであります。
 事なき世界に生きているときの自分をいくら明瞭に認識したからって、人生が事なき世界でもって一生を終わってしまうんならともかくも、変転極まりなきが人生の常。その変転極まりなき人生の中に生きているときに、平素の自分だけをいくらはっきりしてたからって、いざ鎌倉のときに何の役にも立ちゃしない。
 何か事のあったときにあわてやしないか。思いがけない事件にでくわしたときに、うろたえやしないか。冷静な考え方がメチャメチャになってしまわないか。
中村天風師「心に成功の炎を」から

──まさに、
そこなんです。
ふだんはいいですよ。
何もないときは何も問題がなく、
しあわせを満喫しながら落ちついていられます。
環境のほうを居心地のいいようにととのえてしまうことで、
自分で自分がごまかされるようにもなっていますが、
いざ事が起これば揺さぶられる。
何があってもビクともしない虚心平気の境地からは、
まだほど遠いことが露呈します。
自分の、
ここを変えたいんです。

一生の話

意識してココロを鍛えてきたわけなので、
おたおたする回数は減りましたが、
それはあくまで「過去の自分とくらべたらマシになった」だけ。
20点、30点があたりまえだったころとくらべてるんで、
いまは50点を超えてるだけでもすごいことやないかーって思えるんですけども、
要するにサボる口実にすぎない。
正直な気持ちで本心をのぞいたら、
このまま60点そこそこの成績だし、
たまたま70点を超えたからといって、
そんなんで人生を終わりたくない。
>いまのままでいい
>もうこれでいい
>じゅうぶんだ
>それ以上は行くな

というような自分の声もずーっと聞いて、
ずーっと納得してきましたが、
やっぱりね、
人生は1回きり
やれるかもしれないならやりますよ。
過去に100回挫折したとしても、
次はやりとおす。
怠けた自分をこんどは突き抜ける。
極端に走りすぎて自分を見失う傾向があることも知っているし、
完ぺき主義なところがあるし、
中途はんぱなものを否定しがちなことも知ってます。
だからこんどは、
そんなんも含めた感情統御で100点満点を取りにいく。
恐れることをゼロにしたい。
おたおたすることも、ビビることも、そわそわすることも、
なしにしたい。
怒ることもゼロにしたい。
イライラすることもカリカリすることも、
日常からきれいさっぱり消し去りたい。
妥協なく、
その課題に向きあいたい。
心の100点とはそういう意味ですから。
だから、
ほんとうの自分とは何か、
その探求もごまかさない。
人間らしくないくらい、
無期限にトレーニング積みたいです。
これは一生の話。