社員はもっとも信頼できるパートナー

社員をもっとも信頼できるパートナーと位置づけ、 「お互いがお互いの権利などを認めあう」という意味で、経営者と社員は対等だと考える。 それが中小企業家同友会らしい「人間尊重経営」。 責任も権利も義務も報酬も、何から何までちがう雇用側と被雇用側がなぜ対等か。


>うちの会社は、
>従業員の権利や、やる気や能力、人間としての価値を、
>じゅうぶん認めてくれる。
>だから、
>仕事を通じて自分が成長していると実感できる。
>いい会社だ。

──あなたの会社の社員さんは、
こんなウレしいことを言ってくれるでしょうか?
もし答が「イエス」なら、
すばらしいことです。
全員がそうではないにしても、
せめて幹部社員にはこのくらいのことは言うてほしいですよね。
社員が不平不満ばかり口にして、
経営陣を非難しながら次々と辞めていく会社と、
どこがどうちがうんでしょうか。
給料が高いとか、
休みが多いという待遇面だけでは、
こんなふうにはなりません。
今回のテーマは人間尊重
わ~重たっε=( ̄。 ̄;)
経営指針づくり勉強会のたびに、
賛否が激しく分かれるところであります。
労使見解の第2章「対等な労使関係」のところ、
どうしても理解できないという人が必ず何人かいるんです。
経営者と社員は対等な関係にある
って言われても、
どうもすっきりせず、
違和感を覚える経営者が大半です。
ただしこれは、
正しいとか間違っているということではありません。
中小企業家同友会ではこういう経営を推進してますよ、
こんな考え方もあるんじゃないですか、
っていう話です。
 企業内においては、労働者は一定の契約にもとづいて経営者に労働力を提供するわけですが、労働者の全人格を束縛するわけではありません。
 契約は双方対等の立場で取り交わされることがたてまえですから、労働者が契約内容に不満をもち、改訂を求めることは、むしろ当然のことと割り切って考えなければなりません。その意味で労使は相互に独立した人格と権利をもった対等な関係にあるといえます。中小企業家同友会全国協議会「中小企業における労使関係の見解」(1975)より

──あたりまえのことがあたりまえに書いてあるだけじゃないか‥‥
って気もするんですけど、
ここに出てくる「対等」の解釈しだいでは、
どうもやっぱり引っかかるらしいんです。
>そんなバカな話がありますか。
>対等なんてただのきれいごとですよ。
>こっちは給料を払っているんだから、
>そのぶんだけ働いて返すのは社員の義務。
>理想として掲げるのは勝手でしょうけど、
>うちではそんなこと口が裂けても言えません。

──と
セミナーの途中に激高して、
机を蹴って出て行ってしまった会員さんもいたという話が
まことしやかに伝えられているくらいです。
(残念ながら、
そのあと早々に退会されたとか。)
 ここもずいぶんと議論が百出しました。労使は果たして対等か、という点ではかなり異論が出ました。
 経営者は資本も生産設備も一切を提供しており、全財産を投げ出している。自宅も担保に入れてすべて保証している。労働者は体一つで働いている。これはいったい対等なのか。かなり深刻な議論がありました。「人を生かす経営」より(田山謙堂「人を生かす経営とは」)

──労使見解ができた当時から、
やっぱりいろいろモメてたところのようでして、
そんなに簡単に理解できるものでもなさそうです。
雇う側と雇われる側では、
まず、
責任の重さがぜんぜんちがいますね。
そのかわりといっちゃなんですが、
もらうお金の額もちがう。
権利義務もまったくちがう。
え?
話しあうときの態度がぜんぜんちがう?
ああ、
それもそうですね。
とにかく、
ちがうことばっかりだっていうのに‥‥
対等な関係
を、
どう解釈すればいいのか?
>こう考えないとうまくいかないんだから、
>とにかくこんなふうに思え。
>これがわからない経営者はダメだ。

‥‥と、
頭ごなしの教え方をしてる人もいますけど、
そう思えと言われてそのとおりに思えるほど、
人の心は便利にできてない。
理屈ではわかったとしても、
ホンネのところで心持ちがついていかない。
だからこそ、
そこで経営者としての器の大きさってもんに差がついて、
まとまれる会社とばらばらな会社の差になるんでしょうけども。
ちょっとでも対等っていう心持ちに近づきたいってことで、
中小企業家同友会に入会してまもなく10年のわたしが、
今日までに学んだところの解釈を述べますと──
立場のちがいを受け入れ、
お互いの存在を認めあい、
人間として尊重しあおうという、
その気持ちの姿勢において

対等なんだという解釈です。
夫婦関係にたとえてみても、
これは同じことが言えます。
妻が専業主婦という家庭の例で説明しましょう。
>オレが働いて稼いできたカネなんだから、
>どう使おうとオレの勝手だ。
>おまえはオレが養ってやってるんだから、
>この家のことを決める権利はオレにあるんだ。


夫が主張したとするとどうでしょう?
夫はこれを当然の権利だと思いこんでいますから、
妻が少なくとも半分の使い道を決める権利が自分にあると言い出しても、
まったく聞き入れないでしょう。
相手がいてくれてこその自分だ
という感覚がごっそり欠如していますよね。
ジジイのみなさんには申し訳ないが、
時代が古いほどこの傾向は強いです。
わたしも含め、
年寄りはみな胸襟を正さねばなりますまい。
対等な関係はこれとは反対です。
自分は外で働いて収入を得るという役割、
妻は妻として、
家事をこなし子どもを育てるという役割、
それぞれの役割を果たす
という意味において、
どちらが優れているとか劣っているとかなしに、
お互いによくやっている。

──そんなふうに認めあうことにおいて対等なのです。
もっと正確には、
お互いに認めあおうと努力する意思において対等
平たく言えば、
愛しあう気持ちが対等
ε=( ̄。 ̄;)
社長には社長の役割、
社員には社員の役割があります。
しかたがなしに押しつけられた役割ならともかく、
あなたはその役割を自分で選んだのではないのですか?
>じゃあ‥‥
>対等だとしても平等じゃないだろう


反論する人も必ず出てきますが、
ま、
そこまではわたしもよくわかりません。
ただ、
それぞれがそれぞれの役割を誠実に果たす使命を与えられている
という点では、
人はみな平等だというふうにも思えます。
>うん、よし、そこまではわかった。
>じゃあ、よしんば対等で平等だとしても、
>公平ではないだろう?


そこまで食い下がってきた人はいませんが、
さあ‥‥どうでしょう?
不公平なこと、
ありすぎるように見えてますからねぇ、
この三次元社会ではねぇ‥‥。
不公平なことがあったとしても、
それを乗り越える心の力を平等に与えられている

という点では、
やっぱり公平なんじゃないかとも考えられませんかねぇ?
生かされてさえいれば‥‥
という条件はつくでしょうけど。
ε=( ̄。 ̄;)
あ、いささか脱線しました。
対等
っていうところ、
ちょっとはすっきりしてきましたでしょうか?
そこまでわかってもまだ、
あなたのことを認めないアホな社員がいるんですよね。
せっかくつくった経営理念をあざ笑うかのように、
ボケーッとした態度でミスばかりくりかえすんですよね。
こっちは相手のことを認めようと必死で努力してるのに、
相手は自分のことしか考えてない。
と、あなたの目には映る。
──それ、わかります。
10人のうち2~3人は信頼できるパートナーっぽいとしても、
残りの連中はどうでしょう?
あなたの目には、
どう見ても給料のために来てるだけなんですよね。
決められたことを決められたままに最低限こなしているだけと映る。
がっくりするし腹も立つ。
経営者はたいへんです。
でもね、
途方に暮れるほど遠い道のりだからこそ、
そこで差がつくってことなんでしょうよ。
>ウチの会社は自分を認めてくれる。
って
社員が思ってくれるかくれないか。
何年か後に差がつくのはそこだってことですよ。
相手を認めるという努力を、
やりきるリーダーと投げ出すリーダーの差なんです。
オレの言うことがきけないなら会社を辞めろ

怒鳴りたくなる気持ち、
よくわかります。
わかりますが、
そういうタイプの経営者は生き残れません。
絶滅危惧種といってもいい。
なんだかしりませんけど
ちかごろの若ぇもんはワンピース世代っちゅうのか、
みんな仲間
っていう意識がたくましい。
だから、
対等な労使関係ってもんに対しても、
ジジイみたいな拒絶反応がない。
「労」とか「使」とかに分かれた
対立構造が存在していること自体が
そもそも理解できないくらいらしく‥‥、
なので若い経営者ほどここのところの飲み込みは早いです。
田山謙堂さんもびっくらこくでおますかなぁε=( ̄。 ̄;)
「強制する」とか「義務づける」っていう手法そのものが、
もう受け入れられない時代なんですから、
人間尊重を基本にした「人を生かす経営」の重要性が
今後ますます高まっていくことでしょう。
対等で平等で公平‥‥なんて、
経営者を苦しめるための十字架じゃないのか、
学べば学ぶほどよけい苦しいじゃないか。
アホらしすぎてやってられん‥‥

と、
そんなんもよくわかります。
そうであってもどうであっても、
愛だろ、愛。

あなたが育ててきたもののほうを見てみましょう。
なにもしてこなかったわけじゃないですって。