かなり大切な原則の補足説明

心理学者ジョージ・ウエインバーグによれば、 ある動機に従って、なんらかの行動を起こすとき、 もとの動機となる考え方や感情が強化されます。 逆に言えば、従わなければ弱めることができるのです。 感情に従って行動しているようで実は、行動することで背後にある感情を強めたり弱めたりできるのです。


かなり大切な原則
が、
どんなふうに作用しているか、
具体例を挙げて補足説明します(ё_ё)
つきあっている相手のケータイのメールとか、
こそっと見てしまうタイプの女性、
いてますね。
あヾ(☆o☆):
男性にもいてますね。
なんでそんなことするんですか?
その動機は?
──ま、
いろいろあるでしょうが、
ここでは
相手の浮気が心配だからということにしときましょう。
信用してないってわけじゃないらしいですが、
心配になるんだからしかたがないですね。
帰りの遅い夜とか、
とにかく疑いだしたらキリがない。
>どこに行ってたの?
>何人で飲んでたの?
>その人たちとはどこで知りあったの?

と、
とにかく根ほり葉ほり詮索せずにはいられません。
で、
自分が安心したいために、
相手のプライバシーを引っかきまわすわけです。
これがエスカレートすると、
盗聴器とか隠しカメラとか、
興信所に素行調査を依頼するとか、
不安は際限なく広がります。
さてここで、
かなり大切な原則が示していることは──
ある動機(感情でも考え方でも)に従って、
なんらかの行動を起こしたとすると、
もとの動機となる考え方なり感情なりが強化される。

ことです。
EVERYTIME YOU ACT,
YOU ADD STRENGTH TO THE MOTIVATING IDEA
BEHIND WHAT YOU’VE DONE
Dr.George Weinberg “SELF CREATION”

<<
あなたがなにか行動を起こすたびに、
その背後にある、
動機となった考えが強められるのです。
>>
>ジョージ・ウエインバーグ

ケータイをのぞき見る
という習慣的行動が、
浮気が心配
という動機をさらに強める。
すなわち、
ケータイをのぞいたことで心配がますます深まる循環になります。
嫉妬深い性格というものは、
遺伝的な要素はあるにしても、
習慣的な行動によって支えられているといえます。
どんな性格や考え方にしてもそうなのです。
もしここで反対に、
原則を理解し、
「浮気が心配」という感情に従わないことを決め、
ケータイののぞき見をやめ、
相手がどこで何をしようといちいち詮索することもやめたとします。
そこで湧き上がってくる感情と向きあっていくならば、
その元になる動機は弱められはじめるのです。
YOU CAN WEAKEN ANY MOTIVATING IDEA
–ANY FEELING, ATTITUDE, OR BELIEF–
BY CEASING TO ACT IN THE WAYS THAT REINFORCE IT.
Dr.George Weinberg “SELF CREATION”

<<
動機となった考え
──どんな感情でも気持ちでも、信じていることでも──は、
それが再強化されることにつながる行動を止めることによって、
弱めることができます。
>>
>ジョージ・ウエインバーグ

いままでずっと習慣にしていた行動をやめたら、
最初のうちは、
その習癖を再開したい欲求はむしろ強力になります。
メールや通話の履歴を全部チェックして首根っこを抑えてないと、
きっとあいつは浮気するに決まってる。
いや、もう手遅れかも‥‥
いまごろもう新しい相手とホテルでセックスしてるにちがいない。

と、
きっとそんな感じでしょう。
ふだんはマイルドな不安も、
顕在化した恐怖感となって襲ってくるからです。
アル中の人がお酒をやめたら禁断症状があらわれることはよくご存じと思いますが、
理屈はそれと同じこと。
心の奥底にじっと潜んでいた飢餓幻想
目の前に現れるんです。
いつも嫉妬に狂った行動をくりかえす人が
その習慣を止めたとき、
過去の忌まわしい記憶がドッと浮かんできたりするんです。
習癖を止めることがむずかしい理由のひとつがそこにあります。
しかしこの禁断症状のような心の状態をうまく利用すると、
自分がいままで無自覚に背負ってきた心の重荷を短期間で取り除くことが可能です。
なぜかというと、
ふだんは見えない苦しみや痛みがわかりやすく外に出てくるからです。
飢餓幻想は、
過去の陰惨な出来事がトラウマ(心的外傷)になって、
そこから出てくることが多いんですけど、
心の奥の暗い部分に沈められた痛みのブロックを明るいところに引きずりだすことができれば、
光を当てて消滅させてしまうことができるんです。
幽霊の正体見たり枯尾花
っていう句がありますが、
まさにそんな感じになります。
見える化することに大きな意義があるんですね。
過去は変えられる
と、
こう信じましょう。
過去に起こった事実は変えられなくても、
その過去がわたしたちに対して意味するところはいくらでも変えられるんです。
過去の意味を変えるカギは
自分が無自覚に続けている習癖にあります。
続けさせられている習癖

いったほうが正確かもしれない。
  • 月末が近くなると会社にじっとしていられない
    とか
  • 初対面の人には必ず有名私立校に入った息子の自慢話をする
  • くだらないオヤジギャグを連発する
  • 大企業の担当者に媚びへつらう

‥‥ といった習癖を持っている社長がわたしのまわりにもいます。
一見すると他愛もないクセのようですが、
それを強制的にストップしてみれば、
きっといろいろなメッセージが出てくることでしょう。
(ё_ё)
部下を信用していないリーダーの習癖を観察してみると
興味深いことがわかります。
先ほどの
つきあっている相手の男が信用できないからケータイをのぞき見る女

つきあっている相手の女が信用できないから根ほり葉ほり詮索する男

いっしょで、
部下が信用できない上司は、
不信感に従った行動を習慣的にくりかえしているものです。
たとえば、
ある課長がA君という部下のことを低く評価しているとしましょう。
A君の態度も気に入らない課長は、
  • 部署のみんなで飲みに行くのにA君だけ誘わない
    とか、
  • A君が作成た見積書の金額を別の部下に再計算させる
  • 自分のミスのことでA君に八つ当たりする
など、
しばしばそういう行動を取ってA君にキツく当たります。
いじめ状態ですね。
「こいつは仕事ができない」という想いに従って起こしたそれらの行動は、
そのつど課長の「こいつは仕事ができない」を強化しています。
課長の不信感がそうやって強まっていくにつれ、
自分が毛嫌いされていることを察知したA君は、
ますますふてくされて自信をなくしていきます。
A君の能力が低いから「こいつは仕事ができない」と課長が判断したのではなく、
「こいつは仕事ができない」と決めつけた課長の想念が、
能力の低いA君を創りだしたという順序なのです。

部下をそんなふうに腐らせたくなかったら、
かなり大切な原則の作用について学び、
想いと言動の関係性を知っておいて損はないでしょう。
自分のどんなクセが組織のモチベーションを下げているか、
リーダーなら考えてみる価値があるはずです。
口癖っていうのも立派な習癖です。
>こんな仕事、
>なんぼやっても儲からん。
>やりたくてやってるんやないわ。

みたいな口癖のある社長、
あなたの身近なところにもいるんじゃないですか。
そして誰にでもありがちなのが、
いわゆることばの3D──
  • でも‥‥
  • だって‥‥
  • どうせ‥‥
ですね。
あなたはいつから、
そんなネガティブな言葉を口にするようになりましたか?

言動のクセであろうと、
思考や心のクセであろうと、
習癖にはひとつひとつ理由があるものです。
いつからどういう環境で、
その口癖が始まったのか調べてみることには価値があります。
{{{{(+_+)}}}}
>ボクに言わせりゃ‥‥

口癖の
居丈高なY社長の例を挙げてみます。
>ボクに言わせりゃあさ、
>こんなもん作るのに3日もかけるなんて愚の骨頂だよ。
>ボクに言わせりゃね、
>キミの目はフシ穴なんだよ。
>なんであんな身持ちの悪い男にいつまでも現場を任しているんだか‥‥

‥‥とまぁ、
なんせ鼻につく言い方をしてたんです。
ところがあることがきっかけで、
その口癖をやめる決心をされました。
するとまもなく、
自分の想念の唯我独尊傾向に気づき、
そこから派生するいくつもの言動を改めることにつながって、
ずいぶん好感度がアップしたのです。
Y社長は子どものころ、
まわりからずいぶん馬鹿にされて育ったといいます。
関節の病気で片足を引きずるように歩いていたために、
よくいじめられたそうなのです。
あまりの悔しさに「なにくそっ!」と負けん気を出して、
高校や大学ではトップクラスの成績になりました。
足の障がいも全治して柔道の有段者でもあります。
しかしそれがかえって
自分より要領の悪い人間を見下す傾向を強めることにつながってしまいました。
いじめられて育った自分には他人に仕返しする資格がある

無意識に思いこむようになっていったのです。
「ボクに言わせりゃ」の口癖は、
自分が血のにじむ努力をして勝者になった象徴のようなセリフでした。
この口癖を止めようという気持ちになったとき、
それまで積み上げてきた努力が否定されて敗者に逆戻りしたように感じたそうです。
口癖を止めてしばらくたったある日、
小学校のときに特によくいじめられたFという少年の顔が浮かんできました。
突然、ダーッと、
目の前に記憶が蘇り、
何十年もまえにFとやりとりしていた会話が生々しく浮かんできたというのです。
それはY社長にはたいへんな驚きでした。
しかしあとになってよくよく思い起こしてみれば、
Y社長が「ボクに言わせりゃ」と口にするたびに、
このFという古い悪友の顔や声がそれとなくY社長の脳裏をかすめていたことがわかりました。
思い出したくないからはっきり姿を見せなかっただけで、
Fは、いつも、片時も、
Y社長の意識を離れることなくベッタリ張りついていたのです。
実際には
Y社長はもう何十年もFと会っていません。
どこで何をしているかもわかりません。
本人には憎んでいた自覚もないけれど、
心の奥底でほんとうはずっと憎んでいた不愉快な相手に、
何十年ものあいだ勝手に心に居座られ、
見えないイジメを受け続けたことにようやく気づかされたのです。

Y社長の悔し涙は簡単に止まりませんでした。
が、
そのあと、
ずいぶんサバサバして気が楽になったといいます。
実際の身の丈以上に自分を大きく見せなければ
という重圧から
やっと解放されたんですから。
{{{{(+_+)}}}}
習癖をストップしたときに湧き上がってくる想いや感情を注意深く調べてみることによって、
わたしたちは自分発見の階段を上りはじめることができます。
これがいわゆる
心の浄化
というやつです。
心を浄化するには、
苦しいときほど実はチャンスなんです。
自分の思いどおりにならないときこそ、
その苦しみと向きあうことによって、
いろんなメッセージを受け取ることができるからです。
習癖を止めるということは、
ある意味、
自分の思いどおりにならない状況を意図的に作り出すこと
だともいえます。
この苦しみは、
どこから来ているんだろう?
いつごろはじまり、どこまで続いていくんだろう?
自分はほんとうはなにがしたいんだろう?
この苦しみから逃れられたとしたら、
行きたいところはどこだろう?
自分の思いどおりにならない苦しい状況に陥って初めて、
見えてくるものがたくさんあるのです。
だから習慣になっている言動が止まるところにはチャンスがあります。
事故や病気や災害によって
習癖が強制的にストップさせられることが往々にしてありますね。
包帯でぐるぐる巻きにされてベッドに寝かされたとき人は、
何ひとつ
自分の思いどおりにならない
という心の痛みを感じます。
しかし皮肉なことに、
あまりにも多くの人が、
そんな不自由な状況から変わることの意味を学んでいます。
この世に生かされている真の喜び

発見するのも決まってそんなときです。
なにもしない
というシンプルな選択が、
ときとして
もっとも大きな変革をもたらすのはむしろ自然なのです。
わたしが瞑想の習慣を、
まずいちばんはじめにおすすめする理由もそこと関係があります。
究極のなにもしない行為である瞑想は、
あらゆる習癖を強制的にフリーズすること

意味しているのです。
目立った習癖をコントロールするだけでも、
かなり深い部分まで人は変わることができます。
なりたい自分になれるのです。
「こんな自分になりたい」願望の反対側には必ずといっていいほど、
それの裏返しの嫌いな自分がいますね。
あつかましい自分が嫌い。
太った自分が嫌い。
寂しがりやな自分が嫌い。
ひっこみじあんな自分が嫌い。
モテない自分が嫌い。
‥‥

自分のことが嫌いだという人は、
けっきょくのところ、
他人の目に映る自分の姿や言動が嫌いだというのが大半です。
「映り方」の問題だと言っていいいでしょう。
受け入れられない現実に打ちのめされて自分が嫌いになるんです。
「性格を直す」というと、
どこから手をつけたらいいかわからないものですが、
具体的な言動に落としこめれば対処法はあるものです。
身長や顔の造形は変えられなくても、
それの意味するところは変えられます。
はい、
ですからまず習癖を観察してみてください。
具体的に定義できる習癖からでけっこうです。
これが心の浄化初級編でもあります。
なりたい自分になりましょう(≡^∇^≡)
クセの止め方や変え方を知っているのと知らないのとでは、
自己変革を実現する力に雲泥の差が出るヨ
‥‥というお話でした(≡^∇^≡)