助けたいか助けられたいか──50をすぎての恩送り

甘えて生きるのは金輪際にしませんか。 五体満足なわたしが言っても説得力はないかもしれないが、求める側から求められる側へ、 人は誰でも自分の立ち位置を変えられる。 徹底的に甘えて生きてきたクズみたいな人間なら180度の方向転換。かえってわかりやすい。 視点が変わればそれだけで社会に居場所ができるでしょう。


まずは直感的に即答してみてください。
あなたは
助けたいか、助けられたいか。
どっちでもないっていう人は、
しいていうならどっち
っていうことでよろしいです。
資金繰りに追われている人なら、
それだけでもう心がしんどいので、
助けてほしいと思うことのほうが多いでしょうね。
物質的──つまり金銭的、経済的──に苦しいとか、
からだが病気で痛いとか辛いとか、
そういうのをぜんぶトータルに丸めた上で、
助けてほしい

感じるのはあなたの心ですよね。
借金返済で首がまわらないのに、
精神的にはビクともしてなくて、
>困ったことがあったらオレに言えよ。
なんていう人、
いたらたいしたもんです。
あなたは
10年、20年をふりかえって、
じゅうぶんしあわせな人生でしたか。
くよくよせずに生きてこられましたか。
じゅうぶん報われていると感じることができるなら、
助けられたいなんて思いませんよね。
恵まれて、恵まれて、豊かすぎるほど恵まれると、
それをまわりの人たちに分けてあげたいと思うようになりませんか。
もちろん
心の豊かさと物質的な豊かさとが連動してないことはご存じでしょうけど、
強い相関関係があるのは確かですよね。
もしかしたらあなたはお医者さんで、
ふだんは人の命を助けているかもしれません。
が、
自分にしかできない手術はいいとして、
薬の飲み方や副作用の説明、採血や点滴、生命保険書類の下書き、
検査手順の説明から再来受診予約まで、
医師不足のあおりとはいえ免許がなくてもできる仕事ばかりに追いまくられて
>助けてほしいのはこっちだよ‥‥

心の中でボヤいていらっしゃるかもしれない。
そういうのをぜんぶ引っくるめて考えてください。
助けてほしくないし助けたくもない
っていう答もありでしょうね。
お金の貸し借りでもそうでしょうけど、
借りたいか貸したいかと尋ねられたら、
どっちでもない人が多いと思います。
そういう人には、
こんなふうに置き換えて尋ねてみましょう。
あなたはこれまでの人生で、
助けてもらったことと助けてあげたことのどっちが多いですか?

──これならさすがに
助けてもらったこともないし助けたこともない
なんて人はいませんね。
>助けてもらったのが85%で助けたのが15%
──みたいに、
心の比率で計ってみてください。
この比率は、
自分の中の甘えとか依存心をあぶり出すのに役立ちますので、
ええかっこしないで全力で正直に答えてみてください。
え?
はて?
なんでこんなことをきくんでしょうね。
わたしはこの歳になって、
いろんな人にずいぶん助けられてきたことに感謝するとともに、
助けてもらいすぎたことを少々反省しているんです。
 助けた < 助けられた
になってしまっているようで。
若いころ、
人の世話になるのは嫌いでしたから、
こんなはずじゃなかったんですが‥‥ね。
助けてもらうのはかっこ悪いという意識が強かったので、
心はナヨナヨで甘えの塊みたいになってたくせに、
気合いだけは一匹狼
誰にも頼りたくないという内面の「ねじれ」を抱えていました。
>どうせ本気で助けてくれるヤツなんかおらん。

強がってスネて
ひとりだけの殻にこもりました。
だから
自分で会社を起こして食えるようになるまでが、
とにかくしんどかったんですね。
恥ずかしいくらい、
自分のことばっかり考えてました。
しかしまぁそんなふうに、
甘えた自分を許さない
という、
意地を張り続けたおかげで、
どうにかこうにか社会に居場所を見つけることができ、
ビジネスのほうも実質無借金でずっとやってこられました。
それでも結果としては、
ずいぶん助けられてしまいました。
まったく、
やさしい人が多すぎる世の中です。
あなたの生き方はどうでしたか。
わたしといっしょで、
少し、
自分中心に傾きすぎやしませんでしたか。
たいした苦労もしてないくせに、
まだどこか、
誰かに助けてほしいと願う自分がいないか。
 助けたい < 助けられたい
になってないかどうか。
そこ、
ちょっと気になるんです。
自分がおなかすいてても、
他人に先にパンを譲ってあげられるほど愛に満ちた人もいます。
わが子が飢えてても自分の分だけは先に食らうという親も多い中、
自分はどっちのタイプなんだろう

考えてみるのもいいんじゃないでしょうか。
もう食べられないほど腹いっぱいでゲップしてても、
それでもガツガツと財産を貯めこむような生き方をしている人もいます。
わたしは、
そんなふうにはなりたくないんです。
もうじゅうぶんです。
わたしはもうじゅうぶん元気、
もてあますほど元気。
お金だってじゅうぶんあります。
貸すほどある。
ぜいたくできるほどじゃないとしても、
豊かに暮らしていくにはじゅうぶんです。
ありがたすぎて感謝しきれません。
恩送り──
こんな素敵な言葉が自然に心に浮かぶようになるんですから、
歳を取るってことは愉快なことですね。
自分のことはもうじゅうぶん。
もうこれからは、
助けていただいた恩を、
ちょっとずつでもお返ししていきます。
ああ、ところが‥‥
助けてくださった人たちっていうのは、
こんなどうしようもないすれっからしを助けてやろうというくらいですから、
さすが満ち足りた方々ばかり。
いまさらお役に立てることなんてなかなか見あたらない。
みなさんにもそういう経験、
おありだと思うんです。
だから恩送り
いただいたものぜんぶ、
別の場所で別の誰かにお返しすることにするんです。
こんなふうに思うようになってくると、
いままでちっとも見えていなかった他人の痛みとか苦しみとかが、
ずいぶん目に映るようになってきます。
探して歩かなくても、
すぐ真横に、目の前に‥‥
心に(=病み)を抱えていない人のほうが少なかったんですね。
痛みも悲しみも、
心は奥のほうにしまいこむことができますし、
フタを閉めたりカギをかけたり、
とにかく「ない」ことにできますから、
血が流れていたとしても気づきません。
気づいたとしても、
どうすれば元気になってくれるのか、
わからないことのほうが多いことがわかりました。
自分はどこも痛くもかゆくもないっていうのに、
すぐ目の前で心理的なトラブルを抱えた友人を救えないなんて‥‥
悲しすぎます。
いまさら、
この歳になってこういうことを言い出すなんて、
いったいいままで何やってたんだって感じなんですけど‥‥
レスキューです。
しあわせなみなさん、
まわりを見まわしてみてください。
心が窒息寸前の人がいますね。
それも半径10メートル以内にです。
あなたの嫌いな人まで助けてあげろとは言いません。
身近なところにいる大切な人が、
ずっと苦しんでいても気づかないことに気づいてほしいんです。
街中でゴミ拾いするほうが向いているっていう方は、
そういう社会貢献をやっていただければよろしいんですけど、
いままで人の何倍も罵詈雑言を吐いてきて、
他人をいっぱい傷つけてきた自覚のある人は、
せめてもの罪滅ぼしにいかがですか。
心のレスキュー隊
痛いのとか悲しいのとか、
そういうの、
ふつうは嫌でしょうし、
そんなことのないようにあれこれ算段して生きていると思うんですけど、
共感するってことは相手の苦しみが自分の心に入ってくるってことです。
それを受けとめると、
自分も痛いし、自分もつらい、
悲しいし腹立つし情けない。
自分の心がしっかりしてないと、
感情的に巻きこまれて共倒れです。
でもそこで、
余計なひとことをグッと飲みこんで、
ルビコン川を渡ってみませんか。
求める側から求められる側へ
人生の役割を180度転換するんです。
お金にたとえていうなら、
借りる側から貸す側へ。
そのとき自分にお金がいっぱいないと、
人には貸せませんよね。
自分がサラ金から借りてきた金を、
貸してあげるような行為を愛とは呼びません。
心も同じ。
いつもじゅうぶん貯金があるような強い心でいたいですね。