情報の5S

思考は問題解決のためにいつでもフル回転しています。 心に悩みがあるときは思考が救出活動に向かいます。 思考に自由がなくなれば心が崖っぷちに追い詰められます。 メンタルヘルス管理の第一歩は「情報の5S」で、アタマを休めることからです。


2週間まえの夜から、
きょうまで、
ひさしぶりに問題解決のために思考を使いました。
たいした成果はありませんでしたが、
それでもいいんです。
この原稿を書くために、
わざわざそうしたようなもんですから。
ぐるぐるまわる堂々めぐりの思考って、
どんなもんだったか‥‥
わたしはふだん、
なるべく自分の思考を問題解決のために使わないことにしています。
問題が起こったときには、
それを解決しようとするのではなく、
直接的な意識をそこから離して、
結果として問題が勝手に解決してしまうように、
潜在意識に向かって問いかけだけは発しておいて、
あとはひたすら心のほうを整える感じです。
問題は急いで解決しようとしないことが
習慣になっているんです。
そうするとえらいもんで、
ほんとうに問題が勝手に解決してくれるっていうか、
ちゃんと答が降ってくるっていうか、
あたかも
忘れているあいだになくなってしまっている
感じになって、
いろんなことがずいぶん楽にかたづくようになりました。
だから今回は、
わざわざ問題を解決しようとしてみた‥‥
というような
変な言いまわしになるわけなんです。
折しもわたしの会社では4月下旬から、
手痛い解約が何件か重なって業績が下降気味
ただ数字が悪いだけじゃなく、
長年お世話になった方とのお取引が終了するという、
精神的に重苦しい事件も重なって、
解決すべき問題がどすーんと目の前に横たわってます。
問題解決思考は15日めに入りましたが、
いったんはじまると泥沼化、
ぬかるみは底なしです。
これは困ったことになったぞ‥‥
っていう波動に支配されて、
考えれば考えるほど、
ますます悪化していく気がして焦りが高まります。
もがいてももがいても出口は見えず‥‥
これはいつもの自分じゃないヨ。
たまたま今回は試しに問題解決をやってみているだけだヨ。
若いころの思考回路を思い出して
遊んでるだけなんだヨ。

──と、
自分の思考を客観的に眺めることに慣れているわたしでも、
いったん走り出した思考にブレーキをかけるのは骨が折れます。
疲れました。
たいへんなエネルギー消費量。
その大半は情報収集に費やされます。
かなり苦しいです。
20代、30代は、
ずっとこんなことやってたんですよね、
強迫的なまでに‥‥ですね。
問題がたくさんありまして、
それら山積する問題の解決のために、
思考が大忙し。
生活全体が、
問題解決のスピードレースのようでした。
思考中毒だったのかも。
どれだけ思考を重ねても答が出せなかったのが20代。
30代になると、
いろんなことが思考で決着していきましたが、
人間関係と心の問題は未解決。
パズルが解けるみたいに、
すべての問題がかたづいて消えていったのは、
思考の取り扱い方を覚えた40代。
50歳を過ぎると、
さらに思考から遠ざかり、
30代のころの100分の1くらいか、
あるいはもっと減ったのではないかなと思います。
皮肉なことのようでもありますが、
いまわたしの日常の中でいちばん思考を使うのが、
このサイトのために原稿を書くときだったりします。
(ё_ё)
これ以外のことで、
左脳をヘビーに使うことはなくなりました。
だからこの2週間の問題解決思考は、
ほんとうにひさしぶりの荒行だったわけです。
10年間に及ぶダイエットを破って、
昼夜問わず何日も暴飲暴食を続けたような‥‥
2週間で5キロも太っちまいました!!
──みたいな。・゚゚・(>_<;)・゚゚・。
そりゃあ下痢もするっちゅう話ですよね。
あ~しんどε=( ̄。 ̄;)
話は変わりますが、
わたしがはじめてパソコンを買ったのは27歳のとき。
エプソンの286UXっていうね、
フロッピーディスクは2枚挿入できたけど、
ハードディスクはついてなかったやつ。
そこからずっぽりプログラマの道に入りこんだのは、
ちょっとでも思考を楽にしたかったからでしょうね。
大量の情報が、
デジタルなメディアに記録できてコピーできて、
上書きや削除もできる。
それだけで感激でした。
表計算ソフトにいたっては、
数字と数式をセットしただけで、
自動的に足し算や掛け算してくれて、
その表が印刷できる。
むちゃむちゃコーフンしました。
コーフン、コーフン、大興奮。
これで思考がもっと自由に使えて、
もっともっとクリエイティブなことに時間を振り向けることができる

狂喜しました。
わたしにとって初期のITは、
思考の促進補助ツールにすぎなかったわけです。
情報の3S

手段であり目的でした。
よっぽど当時は
アタマが忙しかったんでしょう。
情報をプログラムできれいに並べて、
足し算や掛け算をコンピュータにやらせるだけで、
思考が効率化して時間が浮いた。
もう、
それだけでよかったんですよね。
思考にとって大切なのは、
時間とヒント。
アタマに自由が必要だったんです。
時間とヒントを与えらた思考は、
心を苦しみから救うことができます。
たとえば失恋したとしましょう。
弱っちい心は傷ついて寂しくなります。
すると思考はその問題を解決するために、
次の恋人をどこでどんなふうに見つけたらいいか、
誰に紹介してもらうのがいちばん早くて確実か、
必死で答を探します。
あ、そうか!

希望に満ちた答が見つかると、
まだ新しい恋人ができたわけでもないのに、
心の苦しさが晴れてしまうことがあります。
こんなふうに、
心がしんどいとき、
思考は心を救いだそうと全力で回転するんです。
あ、もちろん、
考えるまえに行動するタイプの人も大勢いますけど、
けっこういろんな心の悩みが、
アタマだけで解決できるのは確かなこと。
だから、
いつでもアマタの自由を確保しときたかったんです。
タイムカード(当時はまだ文字どおり紙)で残業時間を計算して、
給料計算ソフトに入力し直すとか、
日報(これも紙)から各現場の生産高を書き写して合計するとか、
納品書を発行する際に、
1行ずつ品名と単価と数量と金額をタイプするとか、
そういう単純な事務処理に思考を煩わされるのがとにかくイヤでした。
内勤のスタッフさんたちが一日中そんなことのために
壁際に置かれたオフコンに向かっているのを見るだけもイヤでしたから、
自分がさせられた日にゃあ拷問のようでした。
(T△T)
むかしむかしどこかの国の牢獄で、
石を運ばせる刑があったそうな。
ひとつずつ拾って運んで積み上げて、
積み終わったらそれをまた元に戻す。
一切の生産性がない単純作業のくりかえし。
この刑を執行された囚人は、
たいてい発狂してしまうそうな。

「ベント ~堕ちた饗宴~」(97年/日英合作)
っていう
第二次世界大戦中のナチス収容所を舞台にした映画では、
ゲシュタポに捕まって収容所送りになった同性愛者の2人が、
石運びの作業を強制されたあげく悲壮な死を遂げます。
めちゃめちゃ暗すぎる話でした。
ミックジャガーが女装して特別出演してるっていう以外、
映画館に足を運ぶ動機が浮かびません。
──あーあー、
またまた脱線が長くなってしまいましたが‥‥
こっちの帳面からあっちのファイルへ、
数字を書き写すだけの
転記
みたいな単純反復作業を
つまらなさそうに続けている事務員さんを見ると、
わたしはいつも、
この「石を運ばせる」を思い出すんです。
なんのために人間には創造力が与えられているのか。
人間たるもの
思考に石を運ばせてはいかんじゃないか。
──そのときのわたしにできることっていうのが、
プログラムを書くことだったんですね。
思考を解放して自由にしてやろう
ってことを、
自分のミッションとして選んだ経緯はそんな感じ。
魔王の雲

そのための道具です。
解放されて自由になった思考に、
もっと創造的な仕事をさせてあげられることを、
わたしはいまでも願っています。
──以上、
ここまでが3Sについての話です。
きょうはそこに
あと2つのを足しまして、
情報の5S

話をします。
3Sまでは製造業の活動と同じで、
整理・整頓・清掃

指していました。
が、
5Sのほうは
清潔・躾
を足すのではなく、
わたしのオリジナルでいきます。
(ё_ё)
4つめの
静止
──情報を遮断して止めてしまうこと。
デジタルな情報だけではなく、
アタマの中で行き来する情報を止めてしまう。
脳内の情報処理を止めるってことはすなわち
思考を止める
ことに他なりません。
ぜんぶ止めてしまうのが無理なら、
制限
でもいいでしょう。
思考を強制終了するためのもっとも強力な手段として、
瞑想がおすすめなのはくりかえすまでもありません。
そして最後の
静観
──アタマの中で情報が処理される様子
を、
それ自体が自分だと思わず、
思考の動きのゾーンから外へ逃れて、
その動きを客観的に視ることです。
見えているものは扱いやすいのです。
自分が考えている
のではなく
考えているのが自分
なのでもなく
自分の思考があのへんに浮いてる
って感じ
です。
見るもの、聞くもの、
浮かぶもの、感じるもの、
味がするものも、臭うものも、
──すべて情報。
整理・整頓・清掃

静止・静観
5S
で、
徹底的にアタマをクリアにしてみられてはいかがでしょう。