ぬるま湯ほど恐ろしい楽園はない
もうこんなもんでいいんじゃね?じゅうぶんじゃね? って、ほどほどの達成感ってコワいです。 気を緩めると、知らないあいだに退化している。 心のリバウンドが起こる。気は、引き締めすぎても緩めすぎてもいけない。 自分磨きに終わりはありません。
もうこんなもんでいいんじゃね?じゅうぶんじゃね? って、ほどほどの達成感ってコワいです。 気を緩めると、知らないあいだに退化している。 心のリバウンドが起こる。気は、引き締めすぎても緩めすぎてもいけない。 自分磨きに終わりはありません。
完全な自己統御はゆめ油断なく。これでいいというときはないんですよ。自分を磨くのに、ターミナルはないんだから。ここが終点ですというところはありゃしないもの。自己陶冶なしではどんなことをしても一生を通じて幸福、いわゆる健康も運命も完全だという、人間の当然得られる幸福というものをわがものにすることはできない。「しるべ」2012年10月号から
多くいうまでもなく自己陶冶という事は、自己の人格を向上せしめる事で、真人生を獲得しようとする者に何よりも必要な事柄であることは、何人にもその常識となっている事と信ずる。中村天風師「研心抄」から
自己陶冶を志さなければ、人間の一番大事な、人間そのものの人格というものがちっとも向上しないんですもの。何年たってもそのままなんだもの。そうすると、その当然の結果として、もっともっと自分の人生をプラスにする完全な資格と条件は、自然と消えちまうんであります。そしてそれに代わって繰り出すのが、病であったり、不運であったりという、苦い形でもって、あなた方の人生をいじめ出すわけだ。ねえ。
ところが、そう言われてみりゃ、なるほどなと感づくかもしれないけど、言われない限りはですよ、うぬぼれていない人でも、自分は、たいした、間違った生き方はしていないと思うことが、それが非常に自己向上を妨げている。自分で考えて、後ろめたいようなことを考えたり思ったりしたりしなけりゃ、格別、大して間違った道を歩んでないと、こういうふうに考えてるのが、どうも現在の人間の人生に対する意識じゃないんでしょうか。
つまり、自分を磨き上げよう、研ぎ上げようという気持ちがない。たまには出るけれども、それがただ一時の高揚した気持ちでやり出すから長続きしないんです。
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あなた方がみんな私と同じようにね、死ぬか生きるかの大病を長年患っていたら、私が忠告するまでもなく、一生懸命になるでしょう。それは、これも何遍か言った「溺れる者は藁をもつかむ」のたとえでね。まだ溺れるようになってないもんだから、藁をつかもうって気にならない。藁をつかもうという気が、結局燃ゆる情熱なんだ。「しるべ」2012年9月号から
かりそめにも真理に順応して完全な人生に生きようとする我々は、どんな場合にもですよ、人生の幸福というものを安易な世界に求めてはいけないということ、言い換えれば、無事平穏を幸福の目標としないこと。
だからしたがって、苦悩を嫌い、それから逃れたところに幸福があると思っては断然いけない。というのは、そういうところに本当の幸福というものは絶対にないからなの。
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本当の幸福というものは、健康や運命の中にある苦悩というものを乗り越えて、それを突き抜けたところにあるんだ。
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本当の幸福というものはね、なんぞ図らん、凡人の多くが忌み嫌う苦悩というものの中にある。すなわちその苦悩を、わかりやすく言えば、むしろ楽しみに振りかえるというところにある。
もっとも普通の人は、苦悩を楽しみに振りかえるなどと言うと、「そりゃとてもたやすくできるもんじゃない」と言うでしょう。しかしです、我々は「観念要素の更改法」というのを知ってる。したがって、苦悩を楽しみに振りかえるということをさして難しいこととは思いませんわ。
それは、苦悩を楽しみに振りかえるというのは、健康や運命の中に存在する苦悩を乗り越えて、突き抜ける強さを心に持たせることだということを知っているから。しかも、その頼もしい心を、自己の意志でつくる方法を我々は知ってるんだ。中村天風師「真人生の創造」から