遺伝子に映る自分
わたしに似てしまった娘。 あっちにとっては迷惑な話でも、こればっかりはしかたがない。 遺伝子がそのように仕組んだことだから。 それにしても娘の性格、いったいどこまでが「わたし」の影響で、どこからが遺伝子の仕業なのか。 じゃあ、ここにいる「わたし」って何なのか?
わたしに似てしまった娘。 あっちにとっては迷惑な話でも、こればっかりはしかたがない。 遺伝子がそのように仕組んだことだから。 それにしても娘の性格、いったいどこまでが「わたし」の影響で、どこからが遺伝子の仕業なのか。 じゃあ、ここにいる「わたし」って何なのか?
Contents
おそらくある自己複製子は化学的手段を講じるか、あるいは身のまわりにタンパク質の物理的な壁をもうけるかして、身をまもる術を編みだした。こうして最初の生きた細胞が出現したのではなかろうか。自己複製子は存在をはじめただけでなく、自らの容れ物、つまり存在し続けるための場所をもつくりはじめたのである。生き残った自己複製子は、自分が住む生存機械(survival machine)を築いたものたちであった。最初の生存機械は、おそらく保護用の外被の域を出なかったであろう。しかし、新しいライバルがいっそうすぐれて効果的な生存機械を身にまとってあらわれてくるにつれて、生きていくことはどんどんむずかしくなっていった。生存機械はいっそう大きく、手のこんだものになってゆき、しかもこの過程は累積的、かつ前進的なものであった。
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われわれは生存機械である。
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体は、遺伝子を不変のまま維持するために遺伝子が利用する手段なのだからである。
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個体は安定したものではない。はかない存在である。染色体もまた、配られてまもないトランプの手のように、まもなく忘れ去られる。しかし、カード自体はまぜられても生き残る。このカードが遺伝子である。遺伝子は交叉によっても破壊されない。ただパートナーを変えて進むだけである。もちろん彼らは進み続ける。それが彼らの務めなのだ。彼らは自己複製子であり、われわれは彼らの生存機械なのである。われわれは目的を果たしたあと、捨てられる。だが、遺伝子は地質学的時間を生きる居住者である。遺伝子は永遠なのだ。
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問題の全体を整理する一つの方法は、「自己複製子」と「乗り物(ヴィークル/担体)」という用語を使うことである。自然淘汰の根本的な単位で、生存に成功あるいは失敗する基本的なもの、そして、ときどきランダムな突然変異をともないながら同一のコピーの系列を形成するものが、自己複製子と呼ばれる。DNA分子は自己複製子である。自己複製子は一般に、これから述べるような理由によって、巨大な共同の生存機械、すなわちヴィークルの中に寄り集まる。われわれがいちばんよく知っているヴィークルは、われわれ自身のような個体の体である。したがって体は自己複製子ではない。それはヴィークルなのだ。この点はこれまで誤解されてきたから、とくに強調しておかなければならない。ヴィークルはそれ自身では複製しない。その自己複製子を増殖させるようにはたらく。自己複製子は行動せず、世界を知覚せず、獲物を捕らえたりあるいは捕食者から逃走したりしない。自己複製子はヴィークルがそういったことすべてをするように仕向ける。リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」より
しかし、それが段々わかってくるようになるんですよ。自分の命のほんとうの主催権をもっているのは肉体じゃなかった。心でもなかった。見えない気体が自分の命の主催権をもってるということがわかる。この気体を日本語では霊魂といってます。英語では、スピリットといいます。これがほんとうにフウゥとわかるようになる。ちょうど夜明けがだんだん明るくなるように、自然と心のなかにこの気持ちがはっきり自分でキャッチすることができるようになります。
そうすると、今まで知らないこととはいいながら、何とまあ、のべつまくなしに消極的な観念や思想の虜となって夜もろくろく安眠ができずに、そのため活力を減退し、心ならずも健康や運命まで悪くしていたという自分の愚かな生き方が、我れながら実におかしくもあり、またくだらなくもありというふうに、しみじみと考えさせられてくるようになるんですよ。そうならないと嘘なんです。中村天風師「成功の実現」より
意識とは、実行上の決定権をもつ生存機械が、究極的な主人である遺伝子から解放されるという進化傾向の極致だと考えることができる。脳は生存機械の仕事の日々の営みにたずさわっているばかりでなく、未来を予言し、それに従って行為する能力を手に入れている。脳は遺伝子の独裁に叛く力さえそなえている。たとえば、できるだけたくさん子どもをつくることを拒むなどがそれだ。しかし、後に述べるように、この点では人間は非常に特殊なケースなのである。
これは利他主義や利己主義といったいどういう関係があるのだろう? 私は、利他的であるにせよ利己的であるにせよ、動物の行動が、単に間接的であるというだけでじつは非常に強力な意味における遺伝子の制御下にあるという見解を確立しようとしている。生存機械と神経系を組立てる方法を指令することによって、遺伝子は行動に基本的な力をふるっている。しかし、次に何をするかを一瞬一瞬決定してゆくのは、神経系である。遺伝子は方針決定者であり、脳は実施者である。だが、脳はさらに高度に発達するにつれて、しだいに実際の方針決定をも引き受けるようになり、そのさい学習やシミュレーションのような策略を用いるようになった。どの種でもまだそこまではいっていないが、この傾向がすすめば、論理的には結局、遺伝子が生存機械にたった一つの総合的な方針を指令するようになるであろう。つまり、われわれを生かしておくのにもっともよいと思うことをなんでもやれ、という命令を下すようになるであろう。リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」より
心や肉体というものは皮相的に考えると人間そのものであるかのように見えるが、実はそうではなく、判り易くいえば心や肉体というものは、人がこの世に活きるのに必要ないろいろの方便を行うための道具という関係を、人間それ自身に対してもって居るものなのである。
哲学的にいえば、心や肉体は人間の個体生命の生存と生活とを確保存続せしむるに必要とする不可分的生命附属物と註釈される。
であるから心や肉体は、人=自己ではなく、まして又それが更に人=自己の本体ではないのである。
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先ず「真我」というものが、諸君の目に見える肉体ではなく、その肉体を超越したものであるという信念を作為するために、真我と肉体との関係を、恰も肉体とその肉体に着けて居る衣服との関係と同様のものと思量する事なのである。
即ち判り易くいえば、肉体に衣服を着て居るのと同様に、真我は肉体という仮衣を着けて居るものであると思量するのである。
なおもう一つの考え方は、真我は肉体という一つの家屋に、その生命を存続させる便宜上宿って居て、一般の家屋の如くに肉体を使用しているのであると思量するのもよい。中村天風師「研心抄」
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