良いも悪いもないというお話

はじめにラッキーだと思ったことが、あとで不幸を生むこともある。 不運だと思ったことが幸せな結果につながることもある。 幸か不幸か、吉か凶か、どう転ぶかわからない。だから判断すること自体に意味がない。 すべてがベストという前提で生きてみませんか。


やっぱり今年も、
年賀状をポストに投函するのがぎりぎりになってしまいました。
大みそかです。
2014年の年賀状のデザインは、
干支の「馬」にちなんで、
こんな漢文を入れてみました。
近塞上之人、有善術者。
馬無故亡而入胡。
人皆弔之。
其父曰、此何遽不為福乎。
居数月、其馬将胡駿馬而帰。
人皆賀之。
其父曰、此何遽不能為禍乎。
家富良馬。
其子好騎、墮而折其髀。
人皆弔之。
其父曰、此何遽不為福乎。
居一年、胡人大入塞。
丁壮者引弦而戦、近塞之人、死者十九。
此独以跛之故、父子相保。
故福之為禍、禍之為福、化不可極、深不可測也

教養あふれるみなさんは、
もうおわかりと思いますが、
これは
人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)
の故事ですね。
「淮南子」(えなんじ)という、
中国で紀元前2世紀に編纂された書の中にこの原文があります。
読売ジャイアンツからメジャーリーグへ移籍後、
ニューヨークヤンキースなどで活躍し、
今年、
国民栄誉賞を受賞した
ゴジラこと
松井秀喜選手の座右の銘としても有名です。
彼の「不動心」という著書の中にも出てきますから、
それで知ったという方も多いかもしれません。
まぁだいたいは、
「人生というのは何がいいことか悪いことか最後までわからない。
つまり幸福や不幸は予想のしようがない、
だから安易に喜んだり悲しんだりしないようにしよう」

というような意味だと解釈されているようです。
上記の漢文を現代語に訳してみますと──
<<
辺境の砦の近くに、占いの上手な老人が住んでいました。
ある日、飼っていた馬が、
北方の異民族の地へ逃げていってしまいました。
(良い馬は高く売れるので)近所の人々が気の毒がって老人をなぐさめると、
老人は言いました。
 >これで幸福にならないともかぎらないじゃないか。
それから数か月後、その馬が異民族の地から良い馬をたくさん連れて帰ってきました。
そこで近所の人たちがお祝いを言いに行くと、
老人は言いました。
 >これで不幸にならないともかぎらないじゃないか。
やがて老人の家には良馬が増え、
老人の息子が乗馬を好むようになったのですが、
馬から落ちて脚の骨を折ってしまいました。
近所の人たちがなぐさめに行くと、
老人は言いました。
 >これで幸福にならないともかぎらないじゃないか。
1年が経ったころ、異民族が城塞に攻め入ってきました。
若者はみんな弓を引いて戦い、ほとんどが死んでしまいました。
が、老人の息子は足が不自由だったために戦争に駆り出されずにすみ、
無事に父とともに生きながらえることができました。

>>
──どうです?
>へそまがりで感じの悪いジジイの話やんけ!
‥‥じゃありませんよ。
ザ・不動心です(ё_ё)
ヒデキ・マツイです(ё_ё)
真理はいつも、
へそまがりな屁理屈の中に‥‥ですね。
パラドキシカルなんです。
(ё_ё)
わたしはこの話を津留晃一さんの本で知りました。
そして、
津留晃一さんの伝えてくれたメッセージがとても好きです。
 私たちの自我には「どちらが良い」と判定する能力はありません。
 10年後、20年後の結果がどうなるのか、わかりません。「AかBか」の選択のチャンスがあって、どちらを選んだほうが自分のためになるのか、私たちには判断できないのです。
 それなのに、いつも「どちらがいいのか」と自我は判断しています。
 起きてきたことを「良かった、悪かった」と喜んだり嘆いたりするのは、何の意味もありません。
 * * *
 この話で大体おわかりいただけたと思うのですが、ある出来事に対して、それが良いことか悪いことかはわかりません。ですから、判断することに意味がないのです。
 ところが、人間というのは、いつも判断して生きているようです。
 人から何か言われて、それが悪口だととらえる人がいたとしましょう。しかし、悪口かどうかはわからないし、言われたことが本当に悪いことかどうかもわかりません。
 判断する時間があったら、そのエネルギーを「今に生きる」という方向へ向けてはどうでしょう。いつも自分の中心に意識を合わせて、「今、ここ」を生きませんか。
 私は「起きてくることは、すべてベストである」という話をしています。
 その出来事が良いか悪いか、と判定する能力は自我にはないのですから、判定するのは置いておきましょう。
 「このままがベストなんだ」と決めつけてしまうのです。
 「良い・悪い」という判断を捨てて、今、目の前にある事実とともにいてください。あなたの宇宙の事実から目を離さず、「今、ここ」をただ体験してみるのです。
津留晃一「津留さんが、心から伝えたかったこと」

──今年の投稿はこれが最後です。
どなたさまもよいお年をお迎えください。
ごきげんよろしゅうに(≡^∇^≡)