自他一体 ── 他人はいない

自分のしたいことが相手を喜ばせることになって仕事になる。しあわせなことです。 相手の喜びと自分の喜びが重なって自他一体。それは最高にしあわせ。もっと重なればもっとしあわせ。 ぴったり重なればもう完ぺき。愛と創造100%の理想的な自由です。自他一体を感じましょう。

photo credit: てりまかし via photoAC

津留晃一さんは「他人はいない」という言い方をされました。
宇宙には
自分一人しかいないと。
現実だと思っているもののすべては自分を映す鏡であって、
すべてはひとつ、
自他一体
であると。
これはなかなか魂のステージの高い自覚であって、
なんとなくわかった気になっても、
また次の日にはわからなくなってしまう‥‥

くりかえします。
つらいとき、
思い出してみてください。
五臓六腑がバラバラになりそうなほど真につらいとき、
この言葉に戻る。
たびたびわたしのサイトを訪れてくださるあなたには、
さとりが必要な理由

たぶんあります。
重たい荷物を心に背負って生きてこられました。
これであなたも夢が叶えられるよ(*^_^*)系セミナーは、
きょうもあちこちで満員御礼の大盛況ですが、
残念ながらあなたは
そんなんじゃ救われない。
こんどこそしあわせに(*^_^*)っていう言葉についつい引き寄せられ、
何回も信じて何回もチャレンジしてこられたかもしれない。
30万、50万の出費なら安いほうでしょう。
そんなんで救われる人はおめでたいですね。
宗教で救われるならそれもけっこう。
変わりたくて救われたくて、
道を求めて何百冊もの本を読み、
これで変われる(*^_^*)系セミナーに
1000万円以上のお金を注ぎこむ人もぜんぜん珍しくありません。
それだけお金をかけて浄化のコツを体得したとしても、
心の重荷を
最後の1個まで下ろすまでには、
10年、20年という長い年月がかかるのがふつうです。
その年月のうちに何回か、
あっ

気づいて飛躍的に変化するヤマ場がくるみたいですけど。
どうせ浄化するなら、
重荷はぜんぶ下ろしてすっかり軽い心になりたいじゃないですか。
だから、
もしかしたらほんとうに他人はいないのかも‥‥
と、
そんな見方をしていただきたい。
──実は同じ意味のことが
天風先生の言葉の中にもあります。
天地にあるものはただ一つ。どうだい?ただ一つなんだ。自分だけただ一人あるっていうんだ。
   *  *  *
気がついてごらん。自分を空の方面から見てごらん。天地ことごとく自己ならぬがなしとなる。それが物我一如。一列一体の心境。だから私は、あなた方を見ても、みんな自分だと思ってるんだ。
   *  *  *
かく言う私なんかがそうだったの、最初。自分と他とを区別して、やたらと自分、むこうということを思ってたから骨が折れたんだねぇ。さっきそう言ったじゃないか。いっさいの衆生はみな我れと同じ。そうなると楽だよ。自分と他人というものは離れたものじゃないということがわかってくるもん。
   *  *  *
自分ひとりで、やれ、うれしいの、悲しいの、やれ、楽しいの、偉いの、俺は悟ってるの、悟らないの、いや、安心してるの、安泰だの、いや、駄目だの、何だのかんだの、滑った、転んだの、これは自分ひとり、他と区別しちまってるからです。
   *  *  *
なんでもかんでも自分ひとりというふうにしちまえばいいじゃないか。あれも俺ひとり、これも俺だと、こう思ってる。万人のためだとか、他人のためだとかというのは方便なんだから、することも言うこともすべてみんな他人のためになっちゃってりゃいいんだもん。だけど、最初は他人のためということから入っていかなきゃ駄目だ、やっぱりね。
中村天風師「盛大な人生」から

‥‥たしかにそうなんです。
自分も他人もないんだな、
ひとつなんだな、

感じられる境地がいちばん楽。
みなさんもよくごぞんじの
利他
という言葉があります。
京セラの稲森会長が好んでよく使われますので、
同じようにこれを信条に掲げる経営者も大勢いらっしゃいます。
利他利己の反対語であって
「自分の利益よりまず他人の利益」という解釈が一般的なようですが、
そこには自分と他人との区別があり、
どっちよりどっちという比較もあり、
すなわち
利己を否定する要素を妊んでいます。
利他を実践すれば、
めぐりめぐってけっきょくは自分の利益になるというのもほんとうでしょう。
そうすると、
他人の喜びのためという行為が
「けっきょくは自分のため」ということにもなってきますから、
それがわかればわかるほど利他もまた自己中心性の延長のように感じられ、
利己を戒めようとする価値観とのあいだで葛藤が生じることにもなりかねません。
仏教のほうでは自利利他という言葉もあるようです。
それもまた解釈がさまざまなので一概には言えませんが、
他人の喜びがそのまま自分の喜びだという真理を表しているのでしょう。
やっぱり、
いちばん気持ちいいのは自他一体だとわかります。
他もまた自、みんな自分。
自分のためと他人のためが同じ意味だとすれば
けっきょくは自分のためでもなんでもよいことになります。
否定すべきものはないのです。
というか、
他人とか自分とかいう分け隔てそのものに意味がなく、
めぐりめぐってけっきょくどうのこうのという話もないんです。
自己中心性を嫌悪するまえに
他人との区別そのものに意識を向けてはどうでしょう。
愛している相手の痛みが自分の痛みであることがわかれば、
「天地ことごとく自己ならぬがなし」の境地もわかってくるかもしれません。
肉体を離れた魂から眺めれば、
区別するべきものはなにもないのです。
それがわかってこないあいだは、
方便として
他人のため
っていうところから
入っていけよってことなんですけども。
自分のためでもあり相手のためでもある。
そこが自他一体という感覚の入り口になります。
相手のためと自分のためとがイコールで、
自分の喜びと相手の喜びとが確実に一体になる位置がひとつあります。
それが「いま、ここ」
自分がいちばん嬉しいかたちで相手を喜ばせることができる位置。
愛や情けや思いやりが、何物にも妨げられず、ぐんぐん湧いてくる位置。
自分のためにやっていることが決して自己中心にならない位置。
過去もなく、未来もない、いま
たったいま
all rightであると感じましょう。
いまがあって次の瞬間があるのではなく、
またふたたび、
いまと同じいまがある。
静かにすわって
すわって‥‥
It’s all right

出会うまで。
生きとし生けるものは、
神さまに与えられたオーガズム(オルガスムスとも)から、
もっともシンプルに
いま在る感覚を学びとることができるようにつくられています。
「いま、ここ」がどこか、
が、
よくわからない方は、
その位置を突き詰めてみませんか。
マインドフルネス
──知っておいて損はない、
その位置。
<他人がいない>とは、現実だと思っているすべてが、あなたの内側が反映した立体鏡に過ぎないのだ、ということです。
   *  *  *
この現実の中には、実は自分ひとりしか存在していなくて、自分に見えるもの、聞こえるものはすべて自分の内なる世界が反映しているのだ、と決めてみてください。
   *  *  *
あなたには、払っても払っても振りほどけない<恐れ>があります。他人が外側にあると想っている限り、あなたは<恐れ>から自由になることはないでしょう
津留晃一「多くの人が、この本で変わった。」から

はい、そのとおりです。
他人を意識しているのはエゴさんです。エゴさんだけです。
もうひとりの自分は、自分を感じています。
豊かさを感じながら感謝に満ちています。
ほんとうの自分とは、
ただそれだけでいい存在なのです。
あなたのまわりの「気分の悪い他人たち」について、
メモしておいてみてください。
雑念を注意深く観察すれば気づくはず。
いやらしい他人、不愉快な他人、意味のわからない他人‥‥

出現してきて、
あなたの想念を汚しています。
あなたを批判する他人、あなたを尊敬しない他人、
あなたとの約束を守らない他人‥‥
が、
入れ替わり立ち替わり土足で踏みこんできているのです。
そんなときあなたの知覚は
「他人が外から自分の気分を害している」と判断するでしょう。
他人は加害者で、
あなたは被害者です。
思考はたいてい直近2~3日の出来事をなぞりますから、
多くの場合、
そこに現れる「他人」は2~3日のあいだに応接した相手です。
そんな観察力がなかったころは漠然と「敵がいる」と感じさせられていました。
顔の見えない不気味な存在に脅かされていたのです。
いま、
あなたは「他人はいない」ことを知りました。
思考の中に現れてくる他人もまた自分、
自分の想いを映し出している鏡‥‥

他ならないことを知りました。
あなた自身の想念の中の汚れた部分が、
汚れた他人の存在を創出しています。
心を磨き切れていないからこうなるのです。
気づきましょう。
瞑想中がいちばんよく見えます。
雑念に混じって他人が出てきたとき、
それは十中八九、恐れからです。
自分が何かを恐れているのだと疑いましょう。
他人が何事かあなたに言葉を浴びせます。
必ずカチンくることを言うでしょう。
言われたあなたは実にいやな気分になって顔が曇ります。
ムッとする場面をわざわざ思い出さされているかのようです。
そのことに気づきましょう。
実はあなたは、
あなた自身の発した消極観念によって苦しんでいるのです。
他人を消せば、
残るのはあなたひとり。
空っぽなあなたです。
そこで心をまず感謝100%に振りかえてください。
光で闇を照らすように、
愛で満たしましょう。
「他人」は自分の「内側」にあって自分とひとつにつながっているものです。
すべてがひとつ。
これは、
しあわせなことなんです。
自分のしたいことが相手を喜ばせることになって仕事になる。
相手の喜びと自分の喜びが重なって自他一体
それは最高にしあわせなことなんです。
もっと重なればもっとしあわせ。
ぴったり重なればもう完ぺき。
愛と創造100%の理想的な生活です。
自他一体

もっと感じましょう。
誰彼なしに許し、
無条件に愛しましょう。
許せます。愛せます。
あなたは気持ちがよくなってニコニコします。
もう苦しむことはありません。
それが
心のお手入れの総仕上げです。

「他人はいない」とは、現実と思っているもの全ては、あなたの内側を反映した立体鏡にすぎないということです。そこで頭は考え始めます。「でも間違いなく現実はあるのだから、この現実の中のどこかに私を映しだす鏡の部分があるのだろう。その部分を探してみよう」と。でもこれは表面意識の考える思考の流れです。エゴは常にそう考えるのです。そこであなたのエゴはこの現実の中から鏡の部分を探し始めます。きっとあると信じて探し始めた人は、自分のまわりから、ある鏡の部分を発見し始めるようになります。
   *  *  *
人を責めなくなり、許せるようになったあなたは「そうかこれが幻という事か、自分の心が自分を責めていたとわかっただけでこんなに楽になるなんて」と喜びます。「わかった」という思いはとても大きな喜びです。あなたの内側からわき起こる喜びの波動は、この地球のバイブレーションを引き上げるでしょう。きっとあなたのまわりを悦びの渦に巻き込む事でしょう。そんな至福感に水を差すような事になっては困るのですが、これもこの次元でのゲームであるということにどうか気づいていてください。
   *  *  *
この喜びを現実と勘違いして、その喜びの渦に巻き込まれたままでいると、あなたの成長はそこで止まります。「自分はもうわかった」という考えが、あなたの落とし穴です。
   *  *  *
今気付いたあなたの悟りは、この現実のほんの一部分しか反映していません。しかしエゴは一部分を発見しただけで、自分はわかったと言います。そしてこの世が幻である事を理解したと思い込みます。ところがあなたのハイヤーセルフはそうは思っていません。幻とは部分のことではありません。本当にあなたの信じている現実はありません。
   *  *  *
もう一度言います。幻とは、全てが幻という事です。現実はありません。錯覚です。目を覚ませばそのことがわかります。「今、自分は幻夢の中にあり、幻想を現実と勘違いしているのだ」と決めてください。「この現実の中には、自分一人しか存在していなくて、自分に見えるもの、聞こえるものは全て自分の内なる世界が反映しているのだ」と決めてください。そうすればあなたの現実は本当に変わり始めます。あなたが信じていた現実は、ガラガラと音をたてて崩れ始めることでしょう。今がその時です。
   *  *  *
「他人はいないのです」この真実を受け入れてください。あなたが全てです。あなただけが真実である事を受け入れてください。あなたがあなたの宇宙の総責任者です。他人と思えるものはあなたの被造物です。他人のことはあなたが決めてください。その人がどんな人であるか、あなたが決めてください。今まで通り、ひどい人と決める事もあなたの自由です。その人はあなたが決めた通りに振るまい続ける事でしょう。
   *  *  *
少しの間だけ、全てのストレスの原因を自分一人に起因させてみるのです。自分が宇宙全ての根本原因であると仮定してしまうのです。こうなれば後は楽です。もうあなたは誰にも責任をかぶせることが出来なくなりますから、肝が据わります。彼に意識が向かわなくなります。こうして彼の実在が稀薄になり始めます。彼に意識の焦点が合わなくなってきて、彼から混乱させられていた現実が遠ざかり始めます。
   *  *  *
あなたの外側に彼がいたらそうはいきません。彼を何とかしなければなりません。彼を懲らしめるための策略を練らなければなりません。彼から逃げ出すための準備が必要となるかもしれません。いずれにしても彼の事で頭が一杯です。意識の焦点が劣悪亭主に釘付けです。こうしてぐうたら亭主はあなたの中で、ますます肥大化してゆく事になるわけです。あなたの意識を向けたものが、あなたの世界に現実化されるからです。
   *  *  *
現実だと思っている全てが、あなたの被造物です。宇宙の全ての責任をとることを決意したあなたは既に宇宙の創造主です。あなたの思考により、あなたのまわりの全てが産み出されていることに気づけるようになってくるでしょう。あなたしか存在しない世界です。そんな世界に恐れがあるはずもありません。そんな自由な世界は単にあなたが決めることによって生まれます。津留晃一さんメッセージ集「他人」より