マインドフルネス──「いま、ここ」ってどこ?

いそがしい人は要注意。 「入ってきている」か、それとも「入りこんでいる」か。 マインドフルネスは、すべてが入ってきている状態。気づいていること。 時間の概念から自由になり、思考からも解放され、取越苦労ゼロ。 「いま、ここ」はすべてがall rightです。


いそがしい
っていう言葉
を、
ふだんどのくらい使ってますか?
口に出して言わなくても、
いそがしい

思ったり感じたりすることが
どのくらいありますか?
そのことひとつ観察するだけでも、
いかに自分が時間の概念に縛られ、
時間に追われているか

に、
気づくことができます。
>いそがしくない人って、
>よっぽど経済的に余裕のある人か、
>反対に失業中で仕事がなくて、
>毎日が退屈でしょうがない人のこと?
>じゃないの?

いえいえ、
そういう話ではありません。
時間がいっぱいあるとか、
ちょっとしかないということではなく、
時間の概念そのものが幻想だという‥‥
スピリチュアル系な人たちがお得意の、
「いま、ここ」っていうテーマですね。
わたしは、「時間は幻です」と言って、哲学的な理論を表明しているわけではありません。とても素朴な事実を、みなさんに気づいてもらいたいだけなんです。この事実は、あたりまえすぎて、逆にわかりにくかったり、意味がないことのように、聞こえるかもしれません。しかし、この事実を、ひとたび完全にのみこめたら、思考が織りなす問題を、一刀両断してしまえるのです。もう一度言います。「いま、この瞬間」だけが、わたしたちに与えられた「すべて」です。わたしたちの人生が「いま、この瞬間」でなかった時など、絶対にありませんでした。これは事実ではありませんか?エックハルト・トール「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」から

上記の引用は、
「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」
っていう本からですが、
この本の原題は
The Power of Now
でして、
直訳すると
いまのちから
っていうくらいですから、
「いま、ここ」がどこか?

理解するにはたいへん参考になる良書です。
生活の中から
いそがしい

感じることがなくなりますから、
いそがしいビジネスパーソンのあなたこそ、
ぜひご一読を。
自分が「いま、ここ」にしかないことがわかれば、
どれだけ人生がシンプルで楽になるか。
わたしはこのことを、
入ってきている
か、
それとも
入りこんでいる


説明していきます。
はじめに
どうしてもわかっておいてもらいたいのは
執着
という
心が起こす状態について
です。
「いま、ここ」
は、
それの対極にあるものだからです。
マインドフルネス
とは、
「いま、ここ」に在ることと同じ。
執着の対極にある位置へ心をもっていけば、
やがてマインドフルネスに到達します。
気づいていること。
すべてが入ってきている状態
です。
もしいま、
自分がどこにいるかわからなくて、
「いま、ここ」に戻りたくなったら、
>入ってきてるかぁ?

自分に尋ねてみてください。
位置をを的確にチェックするキーワードとして、
「入ってくる」を使うんです。
そうすれば、
いい感じを思い出すことがとても簡単になります。
マインドフルであるとき、
外からの情報はすべてが入ってきています。
誰かと話しているときでも、
空調の音や外を走る車の音、
隣のテーブルのカップルの話し声が聞こえています。
まわりの音が聞こえず、
景色も目に入っていないとしたら、
相手の話の中に入りこんでしまっている状態であって、
これはマインドフルネスとはちがいます。
外の事象が心に入ってきているのか、
それとも
こちらの心が入りこんでしまっているのか。
そこが大ちがいなのです。
ふつうに考えると、
相手の話だけがちゃんと聞こえていて、
まわりの雑音が耳に入らないほうが、
集中して話を聴いているってことで、
いいことのように思いがちです。
でももしそうだとしたら、
集中すればするほど、
言葉だけは耳に入っているが、
顔色も読めず、
相手の重要なボディランゲージを見落とすことになるでしょう。
言葉のアヤに引っかからずに
理解していただきたいんですが、
集中

解釈がちがうんです。
──ここで
天風先生のおっしゃる本来の意味での集中について、
あるいは有意注意あるいは精神統一について、
掘り下げて整理してみます。
これが執着を脱却する鍵になるからです。
 くれぐれも誤解しちゃいけないことは、有意注意と執着をごっちゃまぜにしちゃだめよ。軽率に考えると、ちょいと似てるから。
 有意注意力というのは、心のすべてが心の前にあらわれた事柄や問題に、その力に強し弱しの区別なく同じ強さで、ちょうどサーチライトが暗やみのなかのものを照らすときに、こっちだけ強く、こっちだけ弱くというのではなく同一の光度で照らし出すのと同じ状態なんだ。
 執着というのは、心の前に生ずることや物に心がとらわれちゃって、その心を他の方面に円滑にふり向けることができない。たとえば、病をもっていると病にばっかり首っ引き、借金のある奴は借金にばかり首っ引き。欲のあるやつは欲を何とかして果たすことに首っ引き、というふうにぜんぜん違ってるでしょう。
中村天風師「成功の実現」より

 大抵の人が、精神統一ということは、心の前に現れた事物現象なり、または仕事などに、他意なく一心不乱に注がれる状態をいうのだと考えているようだが、それは大変な間違いなので、それは精神統一の枢要条件である集中ではなく、傾注であり、執着であり、極言すれば凝滞であり、放心なのである。
   ***
   【心】→【事物】=傾注、執着
   【心】←【事物】=集中、統一
   ***
 即ち精神統一とは、心を心の対応するものに捉わしめるのではなく、心にそれを完全に捕捉することなのである。
中村天風師「真人生の探究」より

心のほうから事物のほうに飛びこんで入りこんで
とらわれてしまうのが「執着」で、
事物のほうが心に入ってきているのが「集中」であると、
そう教えられているんですね。
世間一般で「集中」と呼ばれている状態は、
実はそうではないんだ
と。
この感じは、
意識を研ぎ澄まさなければわかりません。
アスペルガー脳もこれにはびっくり。
理屈ではないし、
思考はじゃまになるだけ‥‥。
人にもよりますが、
執着解脱は命がけの修行です。
型にはまった日常生活をいったん全面放棄しないと、
どうしても試せないことも多い。
仕事を辞めたら収入はなくなります。
生活のすべてを支配している時間から逃れようというんですから、
そのくらいの覚悟が必要なのはあたりまえなんです。
セミナーなんかでこれを教えるときは、
簡単なことのように言わないと人が集まりませんから、
商業的にはうまくいかないことも承知してますけども、
それでもわたしはやっぱり
執着解脱命がけの修行であると思います。
天風先生の「安定打坐考抄」によりますと──
「人間は有我の状態にある時には
少しでも油断すると心身の結合──統一なるものが破れ易いもの」

です。
「というのは、
有我の状態の時は兎角小我本位であるからで、
小我本位に自己を律すると
矢鱈と周囲の事実に執われてしまうから」

です。
「一旦人間の心識が何かの事象に執われたとなると、
其の事象に関する思念を裁断しない限りは、
其の執らわれた事象に精神を傾注して使用すると云うことになる」

のです。
神経過敏の根本原因も
「思念裁断されず只徒らに同一事象に精神を傾注して使用するから」

というわけです。
(※「安定打坐考抄」は特に文言が難解なため、
やむをえず原文を分解しての引用となりました。)

思念を裁断し心機を転換することが、
執着解脱の鍵です。
裁断転換が2大キーワードなのです。
コツがわかってくると、
出家などして生活をリスクにさらすことなく、
日常生活の中でトレーニングできるようになります。
ああだこうだ屁理屈を並べるまえに、
いかに短い時間で思念裁断心機転換を図るか、
そこに極意があります。
はじめは一瞬でも、
何かがつかめます。
きっと勘ちがいでしょうけど、
それでも何か、
わかったような気がします。
そこにすがりついてください。
いま
all rightであると感じられますように。
もしあなたがいま
all rightでいられるなら、
あなたはずっとall rightです。
過去も未来もない、
いましかないとはそういうこと。
しかも
そこにはあなたしかいない。
他人はいない
ついさっきまでは不安に苦しめられていたかもしれないが、
事情がどうであれ、
眠ってしまえば痛みも苦しみもすべて感じていないのと同じように、
関係なしにしてしまえる。
いまは何も問題なし、
すべてよし
と。
もし、
他人がいなければ、
あしたがなければ、
すべての苦労は取り越し苦労。
だから、
他人をいないことにしたくて、
あしたをないことにしたくて、
人は自殺します。
未来なんかない、人間関係なんかないと、
気づくことができていたら、
死ぬことなく、
つまり生きたまま、
「いま、ここ」で苦しみを消すことができたんです。
過去や未来に、
心がウロチョロすること全般を観察し、
警戒してください。
心が「どこか」に向かう意識に気づいて、
その誘惑に従わないとき、
相対的に「いま、ここ」がわかります。
「考えたい」「考えなければ」「考えろ」という声を聞きながらも
それに従わないとき、
あるがまま自分が強化されます。
「いま、ここ」を突きつめていくと、
しばしば
なにもしないことにたどりつくはずです。
なにかしててもいいけれど、
少なくとも「なにかしないといけない」という想いは手放しておかないと、
あるがままではおられないはず。
食べるときは、ただ食べ、
歩くときは、ただ歩く。

これが日常における修行の原則であり、
長く「いま、ここ」に在るためのキモだと思っていただきたい。
なにかをするときには、
ただそれだけをするという意味です。
天風先生は
「何かをするときに一切のすべてを
はっきりした気持ちでやる癖つけなさいよ」


言われました。
「執着から解脱して、
つまり雑念、妄念、邪念から心を放して、
気を使うのが気の散らさない心なんだ」

と。
いまこの瞬間、
すべてよし。
It’s all right now.
その基本中の基本が、
歩くときの一歩いっぽであり、
食べるときの一噛みひとかみです。
食事は人生の情味を味わうことそのものです。
ガツガツした食べ方がガツガツした人生につながります。
人生をちゃんと味わいたいなら、
ごはんをちゃんと噛んで、
よ~く味わっていただきましょう。
おいしいな(*^_^*)
しあわせだな(*^_^*)
ありがたいな(*^_^*)

が、
「いま、ここ」です。