思考を止める

考える生活から、感じる人生へ。そんな「いま」を生きましょう。思考を自在に止められるようになれば、心を外から眺められます。 「いま」にとどまり、思い方や考え方を外から取り扱うことができます。瞑想を使って訓練すると、頭の雑音が聞こえてきます。

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アタマじゃなく正直な心にしたがう

考える生活から、感じる人生へ。
──これは、
津留晃一さんの言葉です。
そんな生活をしてみてください。
考える生活から、感じる人生へ。
「今」、
自分のハートを空にして下さい。
あなたがすることはそれだけです。
ハートの感覚を見張り、
イライラッと来たらそこに意識の集中砲火を浴びせ、
ブロックというミニ自我ちゃんを成仏させてあげて下さい。津留晃一「幸せテクニック」より

そうなんですよねぇ‥‥。
アタマで計算して生きるのって、
やめにしませんか

っていう話なんですよね。
わたしはこの津留晃一さんの一節が大好きで、
しょっちゅう思い出すんですが、
頭の中だけでアウトセーフか考えて、
無難なほうをいつも選んでるっていう人、
あなたのまわりにもいてません?
心が不感症になっちゃってるんですね。
そんなロボットみたいな人生、
寂しいじゃないですか。
もうずいぶんまえに、
かなり大切なバランス感覚の話をしましたよね。
あれは平たく言うと、
実在意識を止めて潜在意識を‥‥
っていう趣旨でした。
アタマ(左脳)で考えるっていうことを止めると、
思いもよらずいいことがあるよ
っていう点で、
あの話とこの話は似ています。
でもあのときはハートのことは言ってませんでしたね。
わかりやすい例え話をするとですね、
>アタマで計算したら確実に損するから「待った!」だけど、
>気持ちで判断したら「行っとけ!」

っていう瞬間、
大事にしたいじゃないですか。
あるいは、
アタマで計算したらさっぱりわからない答が、
ハートで判断したらはっきりわかる

ってこともあります。
考える生活から、感じる人生へ
って言ってもですね、
もっと感情的になれって意味じゃないですよ、これは。
「情感が豊かだ」っていうのと「感情的だ」っていうののちがい、
わかりますですかね?
情感が豊かってのは、
心のいろんな動き方を自分でしっかり受け入れて、
感じ方の幅を広げながら自分が成長している状態。
感情的っていうのは、
むしろ正反対。
心の動きに自分が引きずりまわされてる状態。
しっかり受け入れることができないから、
オーバーフローを起こして溢れ出てしまうんですが、
アタマでっかちな生き方をしているとそうなりがち。
心の中が愛で満たされているとしたらけっこうですよ、
そのままでいいんです。
しかしね、
わたしのようにね、
虎の子の一文銭のようなケチな愛しか持ちあわせてない人間は、
その、
なけなしの愛をめいっぱい大切に広げていかないといけない。
アタマで計算した損得勘定ってやつに引っかかったとたん、
愛は行方不明
しばらく戻っちゃきません。
だから、
アタマが「やめとけ!」っていうことでも、
無視してじゃんじゃんやっちゃっていいんですよ。
正直な心に従う。
「モノ」と「ココロ」のバランス絶妙な自立ビジネスを案内

思考の中味が見えていますか?

わがままになれって意味じゃないですよ、これは。
ちゃーんと心のほうのお手入れをサボらず、
いつもピカピカに磨いておけばだいじょうぶ。
なーんにも考えずに正直に生きているだけで、
あなたの魅力はベストに引き上げられます。
不器用でもぜんぜんOKなんですね。
気合いと勢いで日常を乗り切っている猛者にこんなこと言うと、
笑われるだけかもしれません。
意味わからんって(`ε´)
しかしいっぽう、
神経がデリケートで、
まるでわたし(ё_ё)のように、
思慮深くて繊細な心の持ち主には極めて有用な手段となります。
さて、いったい
思考を止める
とは
どういうことか?
いや、そのまえに、
あなたは日々、
自分がいったいどのくらい思ったり考えたりしているか
きちんと把握しているといえますか。
あなたがなーんにも思ったりも考えたりもしてないつもりでも、
次から次と絶え間なく、
頭の中をぐるぐる思考がまわっていることをご存じでしょうか。
他ならぬ自分のアタマの問題なんですけど、
これ、実は100人中99人が
監督不行届(カントクフユキトドキ)
なんです。
知らないあいだにアタマが勝手にウロチョロしている。
私たち人間の脳には一日に六万以上もの思考が去来するらしいが、
興味深いことに、
意図的に舵をとらず脳の好きにまかせておくと、
その思考のうち九十パーセント以上は、
前の日に生じた思考と同じものになるという。
過去を何度も反芻していれば、
過ぎ去った悩みや不安や憤りから自由になることは不可能だ。
 ***
人がリラックスするのは、思考と思考の合間においてだ。
だが、前にも述べたように私たち人間は一日に六万以上もの思考を招き、
それらの大半はいわゆる「心のおしゃべり」が占めている。
リラクセーションのための時間はいくらも残らない。
だから、“思考の合間”をできるだけ多く確保するためには、
心のおしゃべりを静めることが必要なのだ。フレッド・L・ミラー「どこでもすぐにリラックス」から

「心のおしゃべり」とは言い得て妙。
いや、
これはあるいは「頭のおしゃべり」と言うべきか。
とにかく頼みもしないのにペチャクチャペチャクチャ、
のべつまくなしにアタマが勝手に井戸端会議。
自分のアタマがやかましいことに気づいてくださいよ。
あなたがとーっても幸運なら、
あなたのアタマは来週の楽しいプランか何かについて、
ウキウキと想像を膨らませていることでしょう。
しかしそんなウキウキな妄想で思考が忙しくなる確率は高くありません。
知らず知らずの思考のうちの9割以上は──
>これどうしよう?
とか
>あれだいじょうぶか?
とか
>わたし、ちゃんとできたかしら?
とか、
>彼のあの言い方って何なのさ?
とか、
>あしたまでにこれ、やっとかなくちゃ!
とか、
>わー、ヤバい。とにかくヤバい。サイアクーッ!
とか、
>次はどうやったら‥‥?
とか。
ま、
よく耳を澄ませばみなさん身に覚えがおありでしょうが、
取るに足らない引っかかり
あれこれかきまわして反芻しているわけなんです。
いやいや、
バリバリに仕事ができて、
アグレッシブなあなたのアタマには、
そんなムダな思考は少ないかもしれません。
きっともっと自覚的で自発的な思考が巡っていることでしょう。
それが
問題解決

称されるアタマの使い方です。
横文字で書くと──
ソリューション
ですよね。
ビジネスでは通常、
これは生産的な活動と見なされます。
どんどんやっていいことになってるんです。
>現在のわが社には、
>かくかくしかじかの問題点がある。
>わかるよな。
>じゃあそれをどうやって解決するか考えるんだ。
>それが仕事だ。

と。
>このままじゃあかん!
>なんとかせねば!

と。
日常的にごくごくフツウにあることですよね。
問題を解決するのはいいことなんですから、
生産的ですから、
お仕事ですから、
昇進かかってますから、
やらないよりやったほうがいいに決まってる。
それのどこに問題があるんですかってことになる。
しかし、
これが怖い。
これがもうあたりまえの順序になっているから怖い。
すでに述べてきたように、
思考というのは不安に従って無秩序に湧いてくることが多いんです。
愛ではなくて不安に従う。
つまり、
無防備に思ったり考えたりするだけで、
またしてもかなり大切な原則がはたらいて、
不安を拡大強化していることになる
のです。
こんなふうなバカな思考の使い方を止めてください。
問題を急いで解決しようとするのはやめてください。
‥‥(ё_ё)
でも、
それっていったい何のために?
これってどんな目的を達成するための手段なんです?
──うーん、そうですね。

うるさいアタマを黙らせろ

アタマを静かにさせることで、
心のほうへ意識がぐーっと集まりますよね。
気持ちがはっきりして、
自分の感情や感覚とダイレクトに向きあえる。
感情のコントロール
っていうのは、
仕事でも家庭でも大きな課題なわけですが、
コントロールするっていう態度がいいのかどうかは別として、
自分の感じ方は大切にしたいですよね。
腹が立つとか憎たらしいとか、
そういうのは感じないほうがいいかもしれないけども、
心がそんなふうに現に感じているなら、
それはちゃんと汲み取ってやって、
理解してやりたいじゃないですか。
考える生活から、感じる人生へ。
その一歩を踏み出すために、
「いま、ここ」でアタマを黙らせるんです。
静かに、
ひとり静かに、
思考の放つノイズに耳を傾けながら、
想念観察をはじめましょう。
ハートのあたりに意識を持っていって、
えいっと一声、
思考を止めてしまう。
エモーション

見つめてやるんです。
なんか感じているみたいなら、
それ、
じーっと受けとめてやったらいいし、
別に何も感じてないみたいなら、
空っぽにしてやったらいい。
瞑想を日々の訓練に使ってください。
外からの情報を遮断して、
なるべく静かな空間で、
ひとりだけの時間を準備してください。
身体の動きを止めれば、
アタマの雑音がザーザーと聞こえてきます。
え?
やかましすぎて止められない?
あー、はい。
まぁそうですね。
ふつうはそうかもしれません。
頭も心もやかましい。
そう簡単に大人しくしてくれない。
>もっとアタマ使えーっ!
て、
さんざん叱られてきたあなたは、
いまは出世して叱る側にまわったかもしれませんけど、
どっちにしろ思考の奴隷に成り下がってる。
人間には自己防衛本能っていうのもありますしね、
無理にでも問題を探し出して、
その問題を早いめに解決しておこうという習性が染みている。
思考はエゴの手先として、
エゴを生き延びさせるために
闘争か逃走か
判定を
ひっきりなしに下してきました。
思考を止めるとは、
エゴの生存を脅かすことでもある。
だから急に思考を止めようとすると、
禁断症状

あらわれます。
とんでもなく大きなロスだと、
エゴが騒ぎだす。
貴重な時間のムダだと。
そのせいで、
自分がマヌケになったように感じられ、
バカバカしすぎてやってられない。
──そんな反発が起こってきたとしたら正常です。
習慣というのは一般に、
止めた直後の抵抗がいちばん大きいもんです。
だからしばらく辛抱して続けるんです。
ノイズに意識を向け続けてください。
そのうちだんだんと静まってきます。
おしゃべりおしゃべりの合間に音のないスペースが生まれる。
思考が止まって心も空っぽ
‥‥になったとしたら、
それってすごくいい状態なんです。
正直な心のはたらきは、
常に建設的であろうと必死でがんばるアタマよりも、
何百倍もクリエイティブ。
だから、
いまから紹介するように、
思考っていうのは上手に取り扱ってください。
ハンドリングする‥‥っていうか、
手に取って扱える物体のように観るんです。
こうやって思考を客観視する試みが、
やがてとんでもない副産物を産むことがあります。
というのも、
わたしたちはたいてい、
思ったり考えたりしている自分を、
自分そのものだと取りちがえているからです。
「我思う、故に我あり」っていうくらいなんだから、
>自分が思っているんだろうし、
>考えているのも他ならぬ自分だ。
>ここで思考している自分が自分じゃないとすりゃ、
>いったいどこに自分がいるんだ?

ってことに、
ふと気づく日がくるんです。
だって、
思考を止めてもあなたは消えてないんですからな。
──このややこしそうな話は、
またいずれ別のところで述べるとしましょう。
持たずともいい重い荷物を、だれにも頼まれないのに頼まれたように思って、一生懸命にぶら下げて、重い重いと困りながら歩いて、しかも放さないでいたと同じような過去を私はやっていた。
 あなた方もその仲間じゃないか?考えなくてもいいことを考え、思わなくていいことを思って、そして、自分だけはどうしてもそれを思わなければならないことだ、考えなければならないことだと思い違いしていたんじゃないかい。
   * * *
 我々人間がいろいろの物や事を思ったり考えたりするのは、何のためにするのかということについてのほんとうの意味を知ってる人は案外少ないと思うが、どうだい?
 むしろ、そういうことを正しく理解しようとする人がそうたんといないんですよ。わからないことなんか考えなくたって、きょうは今日、あしたは明日だ、生きてるそのまんまで生きればいいんだ、というような無鉄砲な生き方をしてる人が多くないかい。あなた方のわかっていることは、思ったり考えたりするのは人の心の当然の働きだという程度ぐらいなんだ。それ以上の深い理解は何にもあなた方の心のなかにないんじゃないかい?
 それがわからなければだめなんだよ。それがわかってくると、今度はぜんぜん今までとは違った見方、考え方で、心の思い方、考え方を「取り扱う」ようになるわけなんだ。
 思い方、考え方を取り扱うということは忘れちゃあだめだよ。あなた方は取り扱わないんだから。滅茶めちゃなんだから。思ったり考えたりするまんまに、思ったり考えたりしているんだから。この思ったり、考えたりする事柄を取り扱って、処理するということはしやしない。
 取捨分別をうまく取り扱うようになると、心の思考というものがいかに驚くべき力をもっているものであり、形容すれば、ほとんど無限大の働きを行うものだという、ほんとうの心の値打がわかってくるんですがなあ。
中村天風師「成功の実現」より