パラドキシカルな対処法

思考は現実化すると教えられましたよね。ポジティブに考えよう、強烈な願望を描こう、イメージトレーニングをやろう、と。 けれど、そこに危険な落とし穴があったなんて。 ああなりたいこうなりたいと願うその裏で、「それはできない」想いを固く握りしめていたなんて。無意識過剰に注意です。

落とし穴は常識的な思いこみの中に

パ、ラ、ド、キシカルっちゃ‥‥
なんね?(ё_ё)?

むずかしげな言葉を使ってしまって申し訳ない m(_ _”m)
「パラドキシカルな」とは、
平たく訳すと「逆説的な」という意味です。
あなたが「常識だと思っている」ことがあったとします。
ちょっと聞くと、
それと反対のことを言っているようなことが、
実はむしろ、
もっと真理に近いことだったという類の言い方のことです(◎_◎;)
よくごぞんじの例を挙げますと‥‥
ピンチはチャンス
とか。
攻撃は最大の防御
とか。
そういうヘソまがりな理屈をパラドックスっていうんですが‥‥
 パラドキシカルな = パラドックスみたいな
ですね。
┐(-。-;)┌
多くの人びとが見落としてしまいがちな真理というのがあります。
一般的には常識だと信じられていることの中にウソがあるのです。
あなたにも、
心あたりがいくつもあるはずです。
あなたがすでに見落としてしまった大切な真理に気づくきっかけが、
パラドックスに潜んでいます。
>やせたい人は食べなさい
>ゆっくり走れば速くなる
>お金は使えば使うほど増える
>軽くスイングするほどボールはよく飛ぶ

‥‥などなど、
書籍のタイトルにもよく使われます。
マユツバも多いんですがε=( ̄。 ̄;)
それだけにこんなパラドキシカルな視点が、
あなたが固く握っている不必要な思いこみを、
一気に手放す突破口になり得るんですよね。
わたしの役割は、
そうやって変転のきっかけをつくることです。
変わるのはあなた自身の仕事。
価値観を手放すお手伝いをするのがわたしの担当です。
まずは気づくことからです。

思いどおりにならないのは思いどおり

そんなわけで、
パラドキシカルな対処法のひとつめ──
いちばん思いどおりにならないときが、
いちばん思いどおりになっている。

──っていうのをご紹介しましょう。
?(ё_ё)?
あっ、ちょっと(゚○゚)!
ここで見捨てないでくださいナ
いたって真剣ですから。
┐(-。-;)┌
真理からいうと、
想いが現実化する
ってことはすでにごぞんじですよね?
聞いたことあるけど腑に落ちてないという方は、
ずいぶんしんどい人生を送ることを余儀なくされているわけですが、
そこまでのことを説明してくれる書籍やグループは他にもいっぱいあります。
もちろんこのサイトもお役に立てるでしょう。
ま、ともかく、
想いは現実化するんです。
けれどこの言いまわしは、
たいへんリスキーな誤解を招く恐れがあるので、
こう言い直させてほしいんです。
想念は(すでに)現実化している
と。
同じに聞こえますか?
「現実化する」という言いまわしだと、
まるでこれからは現実化するんだけれども、
いままではそうなってないみたいじゃないですか?
変だと思いません?
そこがまさに想念の罠で、
この単純なトラップに100人中99人がハマってしまっているんです。
どういうこと?
「想いは現実化する」ということについては
なんとなく納得しているあなたも
>いま、
>もうすでに現実になっちゃってるんですよ。


て言われると、
>いや、
>そんなはずは‥‥

と、
反発したくなりませんか。
あるいは、
強烈な願望こそが実現するんだと知っているあなたは
>事業家になって成功したい!
>いや、ゼッタイ成功する!
>ビジネスで成功して超ハッピーな家庭を築くんだ!

とかなんとか、
気合い入れてイメージトレーニングしているかもしれません。
>だったらよけい失敗しますよ。
なーんて言われると、
もう意味わかりませんよね。
>いまの生活みたいなつまらない現実を描いた覚えはないし、
>これは自分の思いどおりの人生じゃない。
>いままでは、
>ちゃんとイメージできなかったからこうなったんだ。
>だからこれからはちゃんと夢を具体的に描くんじゃないか。

と、
けっこうこういうパターンが多いんじゃないかと思います。
しかし真理は真理。
想いは(すでに)現実化しているのです。
あなたとしては思ったつもりはなく、
たしかに意識はしていなかったにちがいないが、
つい思ってしまったことが起こってしまった
ということになるわけです。
あるいは、
ああなりたい、こうなりたい、と切実に願うその裏側に、
>ふつうじゃ無理だから。
>そもそもむずかしいことなんだから。

っていう、
願望とは真逆のネガティブな想念を固く握りしめてませんか?
だからこそ切実になるわけなんですが、
まさにそこがトラップ。

「わたしはそう思っている」と自覚できる「思い」っていうのは、
自我(エゴ)の思考に近いものであって、
見えるだけにわりと扱いやすい。
しかしいっぽう、
自分がそう思っているかどうか知覚できない「想い」のほうは、
真我(ハイヤーセルフ)の発する想念に近いものであって、
無意識な(潜在意識の)ものまで含め、
なんせ見えないために扱いにくいのですが、
現実化する速度、強度では
エゴの思考とは比べものにならないくらい速くて強いです。

あなたにとって
いちばん思いどおりにならないとき

ていうのは、
自分が自分自身の想いにもっとも気づいていない状態ですから、
それはあなたの自我(エゴ)が無自覚で怠慢でボケているときです。
つまり反対に、
あるがままの真のあなたが姿をあらわした状態です。
意識の干渉を受けずに「想い」どおりになっているんです。
だ、か、ら、
いちばん思いどおりにならないときが、
いちばん思い(想い)どおりになっている


申しあげているわけなんです。

すべて心が招いている

余談ですがわたしはここで、
自我(エゴ)の「思考」寄りな場合に「思い」と書き、
真我の「想念」とか「観念」寄りな場合に「想い」と書くような区別を、
ちょっとだけやってみましたが、
そんな区別は一般的にはありませんね。
こんな言葉のトリックでごまかしたものは
パラドックスではないんですし。

ま、とにかく、
描いたとおりのことが起きてきています。
あなたの心が呼んでないものがあなたに近づいてきたりしない
のです。
わたしが伝えたいのは
いちばん思いどおりにならないときが、
いちばん大きな気づきのチャンス


てこと。
目のまえに、
苦痛に満ちた現実があるなら、
自分の想いに気づくチャンスがそこにあります。
気づきが少なくて学びが遅いとお嘆きのあなたにピッタリですよね。
過去のあなたの選択が「まちがっていた」のではなくて、
「気づいていなかった」だけなんです。
苦痛を呼び寄せたのは他ならぬ自分自身の想念だということになかなか気づかない
>まさかそんなマヌケなことが‥‥

思うから認められない。
ここのところ、もっとかみくだいて正確に言うと、
現実を引き起こす「想念」には、
あなた以外の誰かのものも混じっているってことなんです。
世の中、
>なったらいいな
と願う人もいれば、
>ならないほうがええよ
と願う人もいる。
あなたが特に何も描いていなければ、
他の誰かが描いたことが現実化して、
そのしわよせみたいなものがやってくることもある。
想念は想念どうしで選挙やって多数決で方向を決めてるようなもんなのですが、
そんなんもこんなんも含めて気づいていくことが大切。
早く気づいて想いを修正できたら、
いまのあなたの苦痛は回避できたかもしれない。
それと同じことで、
やがてまもなく起こるかもしれない不快な出来事を回避したいなら、
「いま、ここ」にいるあなた自身の想念をチェックすればいい

だけです。
ところが、
自分のことを自分で見るのは慣れてないうちはむずかしい。
傍目八目(おかめはちもく)という言葉もあるように、
外からはよく見える。
つまりこれは、
あなたがあなたのに出たら自分自身がよく見えるようになる
という暗示でもあるわけなんですが、
それがむずかしいうちはわたしが手伝います。
気づきひとつでドラマチックな回天が起こせる。
そのお手伝いがわたしの仕事の本質だってことをわかってもらえたところで、
もうひとつ、
パラドキシカルな気づきをご紹介しましょう。
そんなことを思ったつもりはない

あなたが強く否定することほど、
現実にはあなたが強く思っていること
ですよ。
ただ意地悪なだけの屁理屈に見えますか。
ま、そうかもしれませんし、
そうであればそうであるほど当たってます。
パラドキシカルな表現とは、
あまのじゃくで偏固(へんこ)で180度ひねくれた屁理屈のこと‥‥なんです。
きくぞうという存在には、
そんなキャラクターが割り当てられました。
神の意図によって‥‥ですね。
最後にもういちどパラドックスとは──
  • 真理にそむいているようにみえて実は一面の真理を表している表現
  • ある命題から正しい推論によって導き出されているようだが結論で矛盾をはらむ命題
  • 事実に反する結論にもかかわらず、それを導く論理的過程に、その結論を否定する論拠を容易に示せない論法

その他、
もっと深い意味があるようですので、
掘り下げたい方はウィキペディアの説明でもご覧ください。
パラドキシカルな対処
は、
このサイトの主題のひとつなのでしつこく語ってみました。